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Mt.EVEREST    

8850m
(隆起中につきアバウト)
エベレスト(エヴェレスト、えべれすと)
サガルマータ(Sagarmatha)
チョモランマ、チョモルンマ
(Chomoranma, Chomorunma, Qomolangma, Jomo Langma)
埃佛勒斯峰
珠穆朗瑪峰

 

 

 
【目次】
Everest Disaster, '96 エベレスト大量遭難
マロリー遺体発見 '99
エベレストの地図、登頂ルート
エベレストの記録
エベレストゆかりの日本人著名登山家
エベレスト登山史
エベレスト本
NEPALESE CLIMBERS on Mount Everest
最年長登頂
高所登山に耐える体力と食事
8000m 14座の初登頂
番外・おすすめ名著


随時更新中です

 

まず、エベレスト登山を目的とした情報ではなく、特に興味深い書物、ホームページのご紹介をします。
最近のエベレストについてのテーマ、[Everest Disaster,'96]と[マロリー遺体発見]の2つの話題にしぼりました。
1995年以前の書物については、「新版・ヒマラヤ文献目録」「ヒマラヤ名峰事典」(ともに薬師義美著)が詳しいです。

【エベレストの記録】もご覧下さい。

 

Everest Disaster, '96

エベレスト大量遭難

1996年、プレモンスーンの5月10日、公募隊を主としたいくつかの登山隊が、いくつかの要因が重なって、大量遭難者を出した。
これについては、いくつもの書物やHPが扱っている。
ここには、現在のエベレスト登山、公募隊というもの、ビジネスとしてのエベレスト、プロガイドの役割、シェルパの役割等のさまざまな要素について考えさせられる。
日本人も参加したロブ・ホールの公募隊参加費は1人$65000であった。

1. ジョン・クラカワー「空へ」文芸春秋(1997年刊)
Jon Krakauer "INTO THIN AIR" Random House(1997), Macmillan(1997), PAN Books(1998)
著者はロブ・ホールの公募隊に参加した登山家であり、ライター。
商業登山公募隊の実態、隊長、ガイド、参加者それぞれの経歴等幅広く言及し、ヒマラヤ登山界の一面を伝えるこの件に関しての必読の一著。
同日、マロリーたちと同じルート:チベット側北稜からアタックしていたラダック人3人は午後4時に到達した8700m地点を頂上と誤認し、下山中に遭難した。
翌11日、後から来た日本人隊2人が息絶え絶えの3人を尻目にそのまま登頂し、下山時も助けることなく登山を続行したと、著者は冷たく描いている。(救助しなかったというのは誤報とされている。神長幹雄・著「運命の雪稜」)
一気に読めるお勧めの一冊。英語版も、平易で読みやすい。
著者はシアトル在住。

同じくロブ・ホールの公募隊に参加して遭難死した難波康子隊員については、佐瀬稔著「残された山靴」(山と渓谷社)に詳しい。
 
2. アナトリー・ブクレーエフ+G・ウェストン・デウォルト「デス・ゾーン」角川書店
Anatoli Boukreev & G. Weston DeWalt "The Climb" St. Martin's Press (1997)
著者はスコット・フィッシャーの公募隊にガイドとして参加した世界有数の登山家。
上記「空へ」でクラカワーに自分の行動を非難されたが、本書では違った角度からこの登山遠征を報告し、自己の行動を弁明している。
ロシア人のため、代わりにライターのG・ウェストン・デウォルトが英語で本書をまとめた。
ブクレーエフは、本書出版直後、アンナプルナで雪崩に巻き込まれ、遭難死した。

 

3. ブロートン・コバーン「エベレスト―非情の最高峰」日経BP(1998年刊)
Broughton Coburn "Everest: mountain without mercy" Random House(1997)
グラフィックな大判の本書は、救援にはあたったが、遭難の当事者ではないだけに、より客観的に実態を伝えている。
著者は、映画「エベレスト」のアドバイザー。

4. David F. Breashears "High Exposure: An Enduring Passion for Everest and Unforgiving Places"
映画「エベレスト」製作のための遠征隊長、共同監督であったブレッシャーズによる記録。アメリカ人。

5. Beck Weathers and Stephen P. Michaud "Left for Dead: My Journey Home from Everest"
目が見えなくなって登頂を思いとどまり、ガイドが戻るのを待っていたウェザーズは、その後、登頂を果たして下山してきた他の隊員たちと暗闇を彷徨することになる。
発見された時は、息がないと判断されて見捨てられた。が、驚くべきことに18時間後、サウスコルのキャンプに自力で戻ってきた。
妻が手配したヘリを、同じく瀕死の台湾隊隊長高銘和に譲り、自らはカトマンズの病院に二番手に収容された。凍傷のため、両腕と鼻を失った。
忍耐と精神力を感じさせるテキサスの病理学者の記録。

6. Lene Gammelgaard "Climbing High: A Woman's Account of Surviving the Everest Tragedy"
マウンテン・マッドネス公募隊の隊長スコット・フィッシャーの友人であり、その隊に加わった著者による手記。デンマーク人女性。

7.Goran Kropp "Ultimate High: My Everest Odyssey"
スウェーデンから自転車で来たクロップは、結局登頂を果たし、再びスウェーデンに自転車で戻った!
2002.9.30、ワシントンでロッククライミング中、転落死。
彼はネパールのGoran Kropp Bishwa Darshan Primary School (NGO) のスポンサーでもあった。

日本人でもいました。岩崎圭一、前橋出身の世界無銭旅行者が、海抜ゼロから1年を要してエベレスト登頂(2005年)。そして再び自転車でガンジス経由でインドの海抜ゼロに達した。
ネパールでも文無しであったのに、よくやった! どのようにして登頂費用を捻出したか、興味のあるところです。お金のない人もエベレスト登山をあきらめてはイケナイ!

8. Matt Dickinson "THE DEATH ZONE" Random House



YouTubeへのリンク:
The Dark Side of Everest

Inside the 1996 Everest Disaster - Ken Kamler
一旦は仮死状態で見捨てられたベック・ウェザーズが自力でキャンプにかろうじて戻ってきた時の彼の脳内状態についての興味深い考察が、当時ナショナル・ジオグラフィック・チームに随行していてベックをキャンプで診察した医者によって語られる。仮死状態の時、家族についての記憶が呼び覚まされ、それによりエネルギが点火され、前頭葉の意志機能、頭頂葉の内臓機能に行動発令した脳内の働きをビジュアルに説明する。

 

 

 

  

 

マロリー遺体発見 '99

エベレスト初登頂! マロリーか、ヒラリーか?

1953年5月29日にヒラリーとテンジンが、ネパール側からエベレスト登頂を果たした。
その29年前、1924年6月8日にマロリーとアーヴィンがチベット側から頂上に向かった。しかし2人は戻らなかった。登頂したかどうかは不明であった。

1. ヨッヘン・ヘブラム他「そして謎は残った」文芸春秋(1999年刊)
Jochen Hemmleb, & others "Ghosts of Everest" The Mountaineers Books(1999)
1999年5月1日、「マロリー/アーヴィン調査遠征隊」により、マロリーの遺体(
写真c Mountainzone.com) が発見された。
75年間もそこにあったが、白骨化しておらず、象牙のような肌のマロリーの遺体は衝撃的だ。
粗末な装備と衣類で、未知のルートに果敢に挑んだ初期のこのような登山家たちこそが偉大だ。例えマロリーたちが初登攀の栄誉を勝ち取ることができなくても、その存在感は歴史上重みのあるものだ。
調査遠征隊というだけに、本書はやや細かすぎる報告があるが、マロリー達の偉業を十分に伝え、将来への発見に読者の希望をつなぐ。
ヒマラヤ登山史に欠かせない一書であることは間違いない。

 

2. David Breashears, Audrey Salkeld "Last Climb: The Legendary Everest Expeditions of George Mallory" National Geographic Society (1999)
マロリー自身によって取られた写真や遺体発見までの豊富な写真で綴るその生涯。

3. ホルツェル&サルケルド「エヴェレスト初登頂の謎―ジョージ・マロリー伝」中央公論社(1988年刊)

 
4. ライン・ホルト・メスナー「マロリーは二度死んだ」 山と溪谷社 2000



[リンク]

MountainZone.com
上記2つのテーマについて詳しい


The Altitude Everest Expedition 2007
エベレスト東南陵のコース解説。エベレスト登山の動画。マロリーの記事。

ヒマラヤ登山・トレッキングの手配は、
ヒマラヤン・シェルパ・アドベンチャー
→ ネパール・ヒマラヤ登山の手引き
 

  

 



 ◆ エベレストの地図、登頂ルート


 ↑北                   ↑Rongbuku                            ↑Rongbuku

 (↑ Himalayan MapHouse 社。 NEPA MAPS シリーズ 「Mt. Everest より転載。元の 4万分図を少し縮尺しています。)
 
 

 「ナショナル ジオグラフィック 2003年5月号」 特集:エベレスト
  

エベレスト登頂ルート  (最初の数字は上記地図のものと一致します)   作成中
ルート 登頂隊の国名 登頂者(国籍) 登頂日 備考
@南東稜 イギリス隊 ヒラリー(NZ)
テンジン(印)
1953.5.29
A北稜-北東稜 中国隊 史占春 1960.5.25 北稜から上部北東稜。本当に登頂したのか未確認
B(一部)西稜 アメリカ隊 1963.5.22 北壁トラバース〜西稜(最終の800フィート)
C南西壁 イギリス隊 ボニントン 1975.9.24
D(全)西稜 ユーゴラスビア 1979.5.13
E北壁 日本隊 1980.5.10 ホルバイン・クーロアールから
Fサウス・ピラー東側 ポーランド隊 1980.5.19
Gノース・コルから北壁 単独 メスナー 1980.10.20 上部グレート・クーロアール経由
H南西壁から西稜 ソビエト連邦隊 1982.5.4
I東壁 アメリカ隊 1983.10.8
11.北壁 オーストラリア隊 1984.10.3 グレート・クーロアールから
12.ノース・コルから北壁 アメリカ隊 1984.10.20 1980年のメスナーより下部よりグレート・クーロアールに取り付く
13.東壁南面バットレス 国際隊 1988.5.12
14.北東稜 日本隊 1995.5.11 東ロンブク氷河から全北東稜
15.(上部)北東稜 ロシア隊 1996.5.20 クーロアールから上部北東稜

公募隊の一般ルート

@ネパール側のサウス・コルから「南東稜」(「東南稜」とも呼ばれる):ヒラリーとテンジンが初登頂時に辿ったクラシックルート
Aチベット側「北稜-北東稜」(ノース・コルから北稜を経て上部で北東稜に合流):マロリーが発見したクラシックルート
(当サイトでは、従来「北東稜」と呼ばれるこのチベット側古典ルートを、1995年日本隊の「北東稜」ルートと区別するため、「北稜-北東稜」と記載します。これは現在、単に「北稜」とも呼ばれます。
北稜ルート案内

以上のいずれかのルートを取ります。

@はルクラに飛んで、エベレスト街道からベースキャンプに入ります。
Aは陸路ザンムから国境を越えてチベットに入り、車でベースキャンプ入りします。

一般的登頂日は、春秋2回それぞれ5/中旬、10/中旬頃です。
いずれも最低 2カ月を要します。

手始めに、サウス・コルだけ、あるいは、ノース・コルのみ登る公募もありますのでお問い合わせ下さい。

提供: ヒマラヤン・シェルパ・アドベンチャー メール





エベレストの記録 (2011.06 現在)

<参考>「エベレスト―非情の最高峰」(日経BP)
上村信太郎「エベレストで何が起きているか」(山と渓谷社)
NEPALESE CLIMBERS on Mount Everest
Ultimate High: My Everest Odyssey
「信濃毎日新聞」
その他、海外ホームページ

初登頂(南東稜)

1953.5.29

英国隊 エドモンド・ヒラリー(NZ,2008.01.11に死亡、享年88歳)& テンジン・ノルゲイ・シェルパ(ネパール)。第2登はスイス隊、1956年。
女性では、
田部井淳子(1975年5月16日、南東稜)が初登。わずか11日遅れて5月27日中国隊(王富洲)が女性第2登。
日本人初登頂(南東稜)は、1970.5.11松浦輝夫と植村直己、5.12平林克敏。

単独初登頂

1975.9.26 ミック・バーグ
登頂後行方不明
無酸素初登頂

1978.05.08

ラインホルト・メスナー(イタリア)& ペーター・ハベラー(オーストリア)

無酸素単独初登頂

1980.08.20

ラインホルト・メスナー(伊 1944〜)
これは夏期初登頂でもある。
また初の完全単独登頂(BCからシェルパレス)でもある。

冬期(冬季)初登頂(南東稜) 1982.12.27 加藤保男
これにより、初の3シーズン登頂も成し遂げた。
彼は、1973.10.26に秋期初登頂(南東稜)を成し遂げている。1980.03.5には、北稜-北東稜からも登頂したことにより、初の両ルート登頂者となっている。

これに先立って、1980.2.17、ポーランド隊(A.ザワダ隊長)のレゼク・チヒとクルツィ・ビエリツキが登頂したが、ネパール政府が定める冬期とは、12月と1月であることから、冬期登山とは認められていない。

無酸素冬期初登頂は、1987.12.22、アン・リタ・シェルパ。

最多登頂 

2011.05.11 

アパ・シェルパ  21回、(1960年生まれ、ネパール人)。
(シェルパ以外の最多は、Dave Hahn の13回、2011.05.23)
日本人最多7回登頂(2012年現在): 村口徳行

最年長登頂
(最高齢登頂) 

2013.05.23

三浦雄一郎、80歳でネパール側南東稜より登頂。
後日、下記セルチャン(ネパール人81歳)もトライするも失敗に終わり、5月28日にカトマンズに戻った。これにより、三浦雄一郎最年長記録が確定した。

2008.05.25 登頂、
Min Bahadur Sherchan(76歳、ネパール人)下写真:2008.05.30撮影

2008.05.26 
三浦雄一郎、75歳7カ月(この時2位)。

2007.05.22柳沢勝輔(長野県上田市)71歳(3位)
2006.05.17 荒山孝郎、70歳7カ月と13日。
女性では、2012.5.19 渡邉玉枝(73歳)

(参考:
アメリカ人の最高齢者は、Bill Burke 67歳、2009年登頂)


2009年には最年長記録は更新されなかったが、2010年5月に、 Sailendra Kumar Upadhyaya (ネパールの元外務大臣、下写真2枚、80歳) が記録更新に挑むことを2009.5.17に記者会見で表明した。
(Shailendra Kumar Upadhyay とも綴る。) 
シャイレンドラ・クマール・ウパダャヤ
 
 左右の写真は同一人物です (2009.6.11記)

 ◆上記計画はキャンセルされました。この先のことは未定だそうです。息子がネットで資金の寄付を募っていましたが、思うように資金が集まらなかったのでしょうか・・・? 真相はわかりません。(2010.6.11記)


2013年春、上記 Min Bahadur Sherchan(82歳、ネパール人)が再度エベレスト(南東稜)に挑戦する。年齢82歳というのはネパールの暦によろもので、正確には81歳かも知れない。
下写真は、隔週刊の新聞(英語で言えばDistination Nepal という新聞、2013.03初旬発行)に掲載の記事。


最年少登頂

2010.05.22

ジョージ・ロメロ(13歳,アメリカ)

最年少女性は、2003.05.22,ミン・キパ・シェルパ(15歳、ネパール)

盲人初登頂

2001.05.24

エリック・バインメイヤー
7大陸最高峰も登頂。

最短時間登頂

2004.05.21

ペンバ・ドルジ・シェルパ (26歳), ベースキャンプ(5300m)から、8時間10分で登頂。

頂上最長時間滞在

1999.05.07

バブ・チリ・シェルパ (33歳)21時間滞在
Babu Chiri Sherpa

同シーズン2回登頂 1995.5.26 バブ・ツェリン・シェルパ
Babu Tshering Sherpa
4ルート登頂 1995.5.11 ラクパ・ヌル・シェルパ
父子同時初登頂 1990.10.7 Jean Noel Roche と Bertrand Roche (仏)の父と息子は初めて一緒に登頂した。息子 Bertrand Roche はネパール人以外では最年少男性の17歳。
父娘同時初登頂 2007.5.16 Samantha Larson (18)と父 David (51)は共に登頂(アメリカ
Samantha Larson (18)はネパール人以外では最年少女性
夫婦同時初登頂 1979.秋 ゲルハルト・シュマッツ(50)と夫人のハンネローネ(39) (西独)
その他、1991.5.20, Andrej Stremfelj と Marija Stremfelj (ユーゴラスビア)
兄弟同時初登頂 1992.9.25 Alberto Inurrategi と Felix Inurrategi (スペイン)
初2世登頂 1990.5.10 ピーター・ヒラリー(NZ) は、エドモンド・ヒラリーの息子。
初3世登頂 1997.5.23 タシ・テンジン(オーストラリア) は、テンジン・ノルゲイの孫。
海抜0メートルから登頂(世界初) 1990.5.11 Tim McCartney-Snape (オーストリア)
南東稜から
無酸素登頂。
海抜0メートルから登頂(日本初) 2005.5.30 岩崎圭一は、無銭旅行の途中に思い立って2005.5.31登頂。登頂後、またインドの海抜0メートルに自転車で戻った。
無銭旅行記は→こちら
初公募隊 1986.秋 アウゼリン・スポーツ主催(スイス)
フレディ・グラーク隊長ら25人とシェルパ16人。
初シェルパ登山隊登頂 1991.5.8 隊長、隊員、高所ポーターすべてシェルパだけで構成された登山隊。
1990年には、初めてネパール人のみの登山隊(ネパール王立陸軍隊)が登頂している。
ヘリ初着陸 2005.05.14 Didier Delsalle (48, フランス)は、Eurocopter (フランスの会社)のヘリ(AS350 B3 helicopter) で、初めてエベレスト頂上に着陸した。

YouTubeへのリンク:Eurocopter AS350 B3 Everest summit landing

これまでヘリ着陸最高所は、6,096mであった。(ネパール空軍中佐:Madan Khatri Chhetri が、1996年に、Beck Weathers と Makulu Gau を、Camp I で救出した時)
(参考)過去ヘリ到達最高所は、12,442mであった。 by Jean Boulet in 1972
パラグライダー初飛行 1988.9.26 Jean-Marc Boivin (仏) 
南東稜から登頂し、頂上からパラグライダーでC2まで飛んだ。
携帯初コール 2007.05.21 Rod Baber (イギリス)、初テキストメールも送ったとのことである。
China Telecom
はチベット側に中継基地を設置し、エベレスト北稜からの電波をキャッチできるようサポート。
初頂上テレビ中継
初南北交差縦走
1988.5.5 日本テレビ開局35周年記念として、中国、日本、ネパール合同のチョモランマ/サガルマータ友好登山隊による、北稜(北隊)と南東稜(南隊)の交差縦走の際に中継された。
●岩下莞爾「テレビがチョモランマに登った」(日本テレビ、1989)に詳しい。著者は北隊のテレビ隊長。テレビ隊の登攀隊長は中村進。
●「チョモランマ・サガルマータ1988」読売新聞社 1989
1日最多人数登頂 2008.05.26  ネパール側からの登頂者:76名

登頂者数

2010年 3431人(のべ5070人)
これに関して、オフィッシャルデータベースはありません。
日本人は、ネパール人、アメリカ人に次いで第3位

下表参照
死者数 2007年末 217人 

(死者の画像、 )
エベレストを展望する世界一高いところにあるリゾートホテルはここです

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 テレビ局の方へ
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日本からの航空券、カトマンズの宿泊、トレックング中の宿泊、コンデ・ホテル滞在費用等、
すべて無料です。
詳細はお問い合わせ下さい。


エベレスト登山 公募

登山適期は春期:4〜5月と秋期:9〜10月
登頂日をそれぞれ5/10、10/10頃に設定
エベレストを試食する?!
ノース・コル登山 公募

春秋2回
チベット側の一般ルート、「北稜」(従来の北東稜)から、
ノース・コル(7060m)を目指す登山です。

詳細は→
エベレスト、ノースコル登山

サウス・コルも可能です。
 
エベレストを見るカラパタール・トレッキングもあります。ベースキャンプ訪問も可能です。

提供: ヒマラヤン・シェルパ・アドベンチャー メール


エベレストゆかりの日本人著名登山家   (作成中)
登山家 登頂日 活動
植村 直己 日本人初登頂。冬期マッキンリーにて遭難。
加藤 保男 春秋冬3回登頂。冬期登頂後遭難。
田部井淳子 女性として世界初登頂
尾崎 隆 1980
1983
2回登頂
植村直己冒険賞第1回受賞
2011.5.13エベレスト頂上付近で高山病のため死亡
夫人は以前、在ネパールフランス大使館勤務
山田 昇
重廣 恒夫 尾崎隆と共に北壁初登頂
渡邉 玉枝 2012.5.19 世界女性最高齢登頂(73歳)
三浦 雄一郎


          シェルパ列伝          


エベレスト登山史   (作成中)
西暦 遠征隊の国名 ルート 到達点 遠征の概要  ●関連文献
1852年 1949年に測量され、計算の結果、Peak XV が8840mであり、世界最高峰であるとされた。前任の測量局長官ジョージ・エヴェレスト卿の名前にちなんで Peak XV は Everest と命名された。
1921年 イギリス チベット
(北稜)
ノース・コル 第1回イギリス遠征隊、ハワード・バリー隊長。
9月24日、マロリーはノース・コルに達し、北面(チベット側)の登路を発見した。
●F.E.ヤングハズバンド「エヴェレスト登山記」第一書房


写真:「世界山岳名著全集9 エベレスト登頂」(あかね書房)グラビアより転載

【註】日本の登山史において初めて雪中にテントを設営したのは、慶応大学山岳部による1932年(昭和7年)12月のことであった(西穂高森林限界上部)。これを考えると、1921年の遠征での最高所キャンプ地ラクパ・ラ6849mにテントを設営したイギリスはかなり進んでいたといえるだろう。 
1922年 イギリス チベット
(北稜)
8326m 第2回イギリス遠征隊、チャールズ・ブルース隊長
5月21日、マロリー、ノートン、サマヴェルが無酸素で8225m(チベット側)に達した。これは、人類が初めて8000mを越えた記録である。
5月27日、2次隊のフィンチとブルースが、酸素を使って8326mに到達。
●F.E.ヤングハズバンド「エヴェレスト登山記」第一書房


写真:「世界山岳名著全集9 エベレスト登頂」(あかね書房)グラビアより転載
1924年 イギリス チベット
(北稜)
8572m 第3回イギリス遠征隊、チャールズ・ブルース隊長は途中病気で倒れ、代わってエドワード・F・ノートン隊長。
6月4日に2次隊のノートンが無酸素で8572m(チベット側)に達した。
3次隊のマロリーとアーヴィンは6月9日酸素を持って頂上に向かったが、その後行方不明になった。
●ノートン「エヴェレストへの闘い」あかね書房
●F.E.ヤングハズバンド「エヴェレスト登山記」第一書房



写真:「ヒマラヤ名著全集3 エヴェレストへの闘い」(あかね書房)グラビアより転載
1933年 イギリス チベット
(北稜)
8572m 第4回イギリス遠征隊、H・ラトレッジ隊長。
5月30日にハリスとウェイジャーが、5月31日にスマイスが、いずれも8572m(チベット側)に達した。
●H.ラトレッジ「エヴェレスト探検記」岡倉書房 1941 (原題"Everest 1933"1934)
●F.S.スマイス「キャンプ・シックス」朋文堂 1959 (原題"Camp Six"1937)


写真:「世界山岳名著全集9 エベレスト登頂」(あかね書房)グラビアより転載
1934年 イギリス チベット
(北稜)
ノース・コル手前 モーリス・ウィルソン(イギリス陸軍元大尉、37歳)。初めて単独での試み。無許可。
当初エベレスト山麓に飛行機でできるだけ高いところに着陸して登山を試みる予定であった。しかしインドまで自家用軽飛行機で来たものの、チベットへの国境越えは許可されず、陸路をチベット人に変装して3人のシェルパとロンボクまで行き、その後単独で向かった。結局ノース・コル手前のテントで死亡。最後の日記は5月31日で終わっている。
●Dennis Roberts; I'll climb Mount Everest alone. The story of Maurice Wilson. London, Hale, 1957
●R.メスナー「チョモランマ単独行」山と渓谷社 1985 のP.80〜106に詳しい。
1935年 イギリス チベット
(北稜)
ノース・コル上 第5回イギリス遠征隊、シプトン隊長。
20才の頃のテンジンが最初に遠征隊に参加したのはこの隊であった。ダージリンでシェルパを募集する際、シェルパ要員が2名不足し、その補欠としてシプトン隊長によって選ばれたのが、テンジンが山男になる最初のキッカケとなった。
この遠征時、テンジンはイエティに出会ったという。
また、ノースコル下のキャンプで上記ウィルソンの死骸を発見し、埋葬した。
テンジンが達した最高所はノースコルであった。この時テンジンはもっと高みに登りたい熱情を自覚している。
●N.テンジン述、アルマン記「ヒマラヤの男」紀伊国屋書店1955
1936年 イギリス チベット
(北稜)
ノース・コル 第6回イギリス遠征隊、H・ラットレッジ隊長。
テンジンも参加
1938年 イギリス チベット
(北稜)
8300m 第7回イギリス遠征隊、ティルマン隊長。
テンジンも参加。この時、テンジンはタイガーメダルをもらった。


写真:「世界山岳名著全集9 エベレスト登頂」(あかね書房)グラビアより転載
1947年 カナダ生まれのイギリス人、在アフリカ チベット
(北稜)
ノース・コル手前 E・デンマンが無許可単独登山。250ポンド(約25万円)を資金にアフリカからインドに船で渡り、ダージリンからテンジン・ノルゲイとアン・ダワを伴って、シッキムからコン・ラ越えでチベットに入り、ロンボクからコルに向かうが悪天候で断念した。テンジンは最初から、資金も装備も何もないこのような条件で登れるわけがないとはわかってはいたが、エベレスト登山の誘惑には抗しがたく同行を了承したのであった。
翌1948年にもまたやってきたが、チベット国境警備が厳しく、入国許可なしでは越境できなかったので、やむなくアフリカに戻った。
この時にデンマンからもらったバラクラバ・ヘルメットをかぶって、53年にテンジンは初登頂した。
●Earl Denman; Alone to Everest, London, Collins, 1954
●N.テンジン述、アルマン記「ヒマラヤの男」紀伊国屋書店1955
●R.メスナー「チョモランマ単独行」山と渓谷社 1985 のP.106〜111
1950年 アメリカ・イギリス合同 ネパール
クーンブ
5500m
アイスフォール入口
第2次大戦がはじまり、チベットは中共軍により占拠され鎖国し、一方ネパールが開国した。前記ティルマンも参加し、初めて南面に第1回偵察隊(C.ヒューストン他)が入り、これより南面(ネパール側)からの攻撃が始まる。
1951年 デンマーク チベット
(北稜)
ノース・コル手前 K・B・ラルセンは、無許可単独でシェルパ7人を伴い、ダージリンからネパールに入り、最初ウエスタンクームへ行こうとしたが断念し、ナンパ・ラ越えでチベットに越境。ロンボクからコルに向かうが、装備不十分で途中シェルパに同行拒否され断念。
●R.メスナー「チョモランマ単独行」山と渓谷社 1985 のP.111〜114
1951年 イギリス ネパール
クーンブ
ウエスタン・クーム西端 エベレスト南面(ネパール側)ルートにおける第2回イギリス偵察隊、シプトン隊長。初めてアイスフォールを越えた。サウスコルからの登頂可能性を見出した。
1952年
 春
スイス ネパール
(南東稜)
8595m この年、ネパールによりエベレストの登山を許可されたのはスイスであった。イギリスとの合同隊の話もあったが、どちらを隊長にするかでもめて、破談になった。
スイス隊はテンジンに同行を依頼した。
アルプスのガイドのランベールとテンジンが、サウスコルを越えて、5月27日8400mでビバーク。サウスコルでサポートのシェルパ3人が力尽きて下ってしまい、十分な食料・装備がなかったので、この最終キャンプからさらに2名のスイス人隊員が下のキャンプに下った。テンジンたちにはストーブやシュラフはなく、テントとローソクのみ最終キャンプであった。眠ることなく翌5月28日、悪天候の中を2人で交代で突き進み、8595mに到達し、そこで引き返した。酸素器具は役に立たなかった。第2隊も高山病と寒気に阻まれて撤退した。
●R.ランベール「山に闘う」三笠書房1956
●N.テンジン述、アルマン記「ヒマラヤの男」紀伊国屋書店1955
1952年
 秋
スイス ネパール
(南東稜)
8100m イギリスが来年の登山許可を取っているので、どうしても頂上を陥落させねばと、同年秋雪辱を期して臨んだ。今回テンジンは、サーダー兼スイス隊隊員の一員としての待遇であった。
ローチェ斜面をサウスコルの向かう途中氷塊が落下してきて、シェルパのミンマ・ドルジェに氷の破片が突き刺さり、肺に達して死亡した。
11月20日に8100mに達するも、冬はもうそこまで来ており、とうとう寒気と強風に押し返されて断念し、多くの食料、装備を投げ捨てて逃げ帰った。この食料の恩恵を受けたのは、翌年のイギリス隊であった。
スイス人たちは、「エベレストから追放された」と表現し、無念の思いで攻撃を終えた。
この遠征のあと、ランベールは首にまいていた赤いスカーフをテンジンに与え、再会を誓った。
●N.テンジン述、アルマン記「ヒマラヤの男」紀伊国屋書店1955
1952 ソ連 チベット 8200m チベット側からソ連隊が登頂を試みたとされるが、公式記録はない。
(最終キャンプ:8200m、アタック隊6名は行方不明)
他の8000m峰でもソ連はヒマラヤ登山史上に全く登場しない。大国ソ連の唯一の記録である。
1958年には春秋2回、中ソ合同登山隊(偵察隊)が出ている。2回共、6200m〜6700mで終わっている。
1953年 イギリス ネパール
(南東稜)
頂上 5月29日、エベレスト初登。
ハント隊長は、前年のスイス隊の敗退を踏まえ、周到に準備した。酸素器具の改良、シェルパによるルートフィックスと荷揚げのあと、高所順化に時間をかけ力をセーブした隊員が攻撃をかけた。
第1隊のボーディロンとエヴァンズは、5月26日南峰頂上8760mに達した。
第2隊のヒラリー(33歳)とテンジン(39歳)は、スイス隊最高到達地点8595mの少し下に第9キャンプを設け、5月29日、快晴の中、6時半出発、9時に南峰、11時半に頂上に到達した。
1909年のペアリーによる北極、1911年のアムンゼンの南極到達に続いて、第3の極地と言われるエベレストがここに人類によって到達された。
最終キャンプでは、ヒラリー、テンジンにより、PRIMUSのストーブが携行された。
(1892年、リンドクヴィストが発明したPRIMUS プリムス・ストーブが発売され、1911年、アムンゼンの南極点到達にPRIMUSストーブが携行された。こうした技術の進歩があって初めてこれらの偉業が可能であった。)
また、ウォーキー・トーキーも活躍した。これがないということは、各キャンプや登頂隊との連絡がとれず、現在地の確認ができない、下から食料やサポートは来るのか、どこのテントにはその日何人宿泊予定か、等々、定められた予定通りに行動できない天候の中で、連絡を取り合えないとういうかつての条件は致命的でさえあった。
●J.ハント「エベレスト登頂」朝日新聞社1954、朋文堂1960、あかね書房1966、河出書房新社1977
●E..ヒラリー「わがエヴェレスト」朝日新聞社1956 
●W.ノイス「エヴェレスト―その人間的記録」文芸春秋新社1956、筑摩書房1966 
●N.テンジン述、アルマン記「ヒマラヤの男」紀伊国屋書店1955



写真:"THE ASCENT OF EVEREST" 原著より転載

1956年 スイス ネパール
(南東稜)
頂上 エベレスト第2登。アルバート・エグラー隊長。
5月18日にまずローツェに登頂。5月23日、シュミートとマーメットがエベレスト登頂。
24日に2名登頂、合計4名登頂。
1960年 中国 チベット
(北稜-北東稜)
登頂したと
のことだが
未確認
チベット側からの初登頂
史占春隊長。
登頂したのは、王富州、屈銀華、貫布の3名。
●人民体育出版社編「中国の登山運動」外文出版社、1964
1963年 アメリカ 西稜〜南東稜 頂上 西稜から南東稜への初縦走
5月1, 22日、計6名登頂
●アルマン「エベレスト登頂記―1963年アメリカ隊」ベースボール・マガジン社1965
●J.D.マッカラム「エヴェレスト日記」二見書房1967
1965年 インド 南東稜 頂上 5月20, 22, 24, 29日に合計9名登頂。M.コーリ隊長。
1970年 日本 南東稜 頂上 5月11, 12日、計3名登頂
●日本山岳会「1970年エベレスト登山隊報告書」
1973年 イタリア 南東稜 頂上 5月5, 7日、8名登頂。G.モンジーノ隊長。
1973年 日本 南東稜 頂上 1973.10.26に、加藤保男と石黒久が秋期初登頂。水野祥太郎隊長。
1975年 日本 南東稜 頂上 5月16日、田部井淳子がアン・チェリンと共に登頂
日本女子隊(久野英子隊長)
1975年 中国 チベット
(北稜-北東稜)
頂上 チベット側から5月27日、9名登頂(女性1名含む。田部井淳子登頂の11日後)。
史占春隊長。
●人民体育出版社編「中国の登山運動」外文出版社、1964
1978年 オーストリア 南東稜 頂上 1978.05.08、オーストリア隊(W.ナイルツ隊長)が、5月3,8,11,13日に合計9名登頂。そのうち、ラインホルト・メスナー(イタリア)& ペーター・ハベラー(オーストリア)は無酸素初登頂。
1980年 日本 チベット
北稜-北東稜と北壁
頂上 北稜-北東稜の隊は加藤保男が登頂(5月3日、20:55)。10分後下山、しかし暗闇で危険なため途中でビバーク。下に不調のため待っていた中村進が第2ステップ上部8600m余でビバークするのをヘッドランプで確認。共に酸素、食糧なし。5月4日、両名合流し、サポート隊と共に、第6キャンプに戻った。

北壁隊は尾崎隆(5月10日、20:50)と重廣恒夫(5月10日、21:02)が登頂。17時頃に酸素がなくなる。8600mでビバーク(食糧なし)。5月11日正午前、最終キャンプに戻った。
●日本山岳会「チョモランマに立つ」読売新聞社
1980年 イタリア チベット
北稜-北壁
頂上 1980.08.20ラインホルト・メスナーが無酸素単独登頂。
参考文献:
深田久弥「ヒマラヤの高峰1」(白水社) 1983 のエヴェレストの項
「エヴェレストへの闘い」(あかね書房) 1968 の解説(吉沢一郎)
「世界山岳全集6」(朋文堂) 1960 の解説(望月達夫)
ラインホルト・メスナー「エヴェレスト 極点への遠征」(山と渓谷社) 1979 の『エヴェレストの25年』の章
ウィリアム・H・マーリ「はるかなるエベレスト」(あかね書房) 1966 

その他、Webサイト


     各国エベレスト登頂隊の行動時間一覧 (米国B以外いずれも南東稜) ―「エベレストへの道」(NHK昭和46年刊)から引用           
遠征隊 上り 登頂 下り 最終キャンプC〜8848m
国名 年月日 最終C発 頂上着 所要時間 速度m/h 滞頂時間 頂上発 最終C着 所要時間 速度m/h 最終C高度 高度差m
英国 1953.5.29 6:30 11:30 5:00 76 0:15 11:45 14:00 2:15 168 C9: 8470m 378
スイス@ 1956.5.23 8:30 14:00 5:30 82 1:00 15:00 17:00 2:00 224 C7: 8400m 448
   A 1956.5.24 6:45 11:00 4:15 105 2:00 13:00 14:00 1:00 448
米国@ 1963.5.01 6:15 13:00 6:45 72 0:20 13:20 17:45 4:25 110 C6: 8360m 488
   A南東稜隊 1963.5.22 8:00 15:30 7:30 65 0:45 16:15 23日0:30〜6:00 ビバーク
   B西稜隊 1963.5.22 7:00 18:15 11:15 50 0:15 18:30 南東稜隊と共にビバーク C5: 8270m 568
インド@ 1965.5.20 5:00 9:30 4:30 74 0:30 10:00 ? ? ? C6: 8513m 335
   A 1965.5.22 6:30 12:30 6:00 56 0:50 13:20 19:00 5:40 59
   B 1965.5.24 5:00 11:00 6:00 56 0:45 11:45 16:15 4:30 74
   C 1965.5.29 5:30 10:00 4:30 74 0:30 10:30 15:30 5:00 67
日本@ 1970.5.11 6:10 9:10 3:00 112 1:00 10:10 11:40 1:30 223 C6: 8510m 338
   A 1970.5.12 5:55 9:55 4:00 85 0:30 10:25 13:10 2:45 122


エベレスト本

上記エベレスト登山史の流れに沿ってご紹介します     (作成中)
おすすめ度
5段階
(暫定評価)
原題
翻訳書
解説
古典  エベレスト登山史、ヒラリー、テンジンについて
★★★★ THE STORY OF EVEREST
W.H.Murray・著、1925年

はるかなるエベレスト
山崎安治・訳
二玄社 1963
あかね書房 1966
1852年、世界最高峰がエベレストであるとの発見から、登山の対象とされ、登路の探索、登頂に至るまでの初期登山の歴史を描いている。まさに題名通りのエベレスト物語。この本の大半は、マロリーたちによるチベットからの北面からの登路の発見と、ノートンが無酸素で8572mに達し、第2次世界大戦でチベットが鎖国となるまでの活動に割かれている。大戦後ネパールが開国し、1952年南面からのスイス隊の攻撃で8595mに到達、1953年ついにイギリス隊が登頂の栄誉を勝ち取る経過を、最後の2章で描く。登山の醍醐味は、なんといっても登路を見つけるという探検的な活動から始まり登頂に至るまでの過程にある。その過程で、彼らは、エベレストの気候・温度・風、登山適期、酸素濃度、高所順応、装備改良、等々について学んでいった。初期登山家のそれらの活動があっての1953年の成功がある。その意味で、登頂は、1953年の登山隊のみによって勝ち取られた成功でなく、それまですべての登山隊の総決算であることが、本書によってよく理解できる。
★★★★ THE FIGHT FOR EVEREST
E.F.Norton・著、1924年

エヴェレストへの闘い
山崎安治・訳
あかね書房 1968
1924年、第3回イギリス遠征隊(チベット側)の隊員たち自身による記録。
ヤングハズバンドが優れた序言を書いている。
★★ Camp Six
F.S.Smythe・著, 1937年

キャンプ・シックス
F.S.スマイス
伊藤洋平・訳
朋文堂 1959
1933年春、第4回イギリス遠征隊(チベット側)
烈風に苦しめられ、困難を極めた登攀の記録。
エベレストがいかに難しいか描写している。
8572mで敗退。
★★★★ THE ASCENT OF EVEREST
J.Hunt・著、
Hodder & Stoughton, 1953

エヴェレスト登頂
田辺主計,望月達夫・訳
朝日新聞社 1954年
1953年ハント隊長(42歳)によるエベレスト初登頂(ネパール側、南東稜)の記録。
指揮官らしく、計画、行動、装備、食糧、タクティックス、天候、隊員、シェルパ等、すべてに目が行き渡った登山記録になっている。また、すべての隊員、高所シェルパに対して、本書の中でその健闘ぶりを称えて、登頂した2人だけでなくすべての隊員たちが登頂に欠かせない存在であることを強調すると共に、前年のスイス隊をはじめとするこれまでの登山隊や、装備、食糧、手続き、その他科学におけるサポートをした人たちに対しても、この成功に当たっての貢献を称える配慮をして、よき指揮官、統率者であったことを窺わせている。そして、自らも、計画遂行を支えるべく、8341mまで30kgの荷揚げを敢行し、成功への渾身の意欲を見せている。
サウス・コル、最終キャンプ、登頂の3日間(5/27,28,29)についてはヒラリーが執筆している。

ハント、 ヒラリー、 ロウ、 ノイス、 ボーディロン、 ワイリー

テンジン、エヴァンズ、バンド、グレゴリー、ウェストマコット、ウォード

写真:"THE ASCENT OF EVEREST" 原著より転載
★★★★ South Col
W. Noyce, 1953

エヴェレスト―その人間的記録
W.ノイス
浦松佐美太郎・訳
文芸春秋新社1956、筑摩書房1966
隊長のジョン・ハントは、マロリーがエベレスト登頂成功について知ったら喜んだことだろうと言ったという。ハントが「登山隊」という時、「登山隊」とは、マロリーを含めた過去のすべての登山隊を指していた。彼らの肩の上に乗って、エベレストの頂上に達した、という考えだ。
また、テンジンについては、シェルパの1人が頂上に立ったのは非常にいいことだ。テンジンは、エベレスト登攀のために働き、死んでいったシェルパの代表をして選ばれた。シェルパなしではエベレストは登れない。スイス隊で活躍したテンジンがその代表になるのは当然であった、としている。
もし、第2隊のヒラリーとテンジンが失敗した場合、隊長のジョン・ハントは自分とこの著者のノイスが、第3隊として頂上に向かう計画をしていたそうだ。ノイスはその他残っている隊員のうちで、その時、もっとも体調が良かったからだ。彼は高山病の症状も述べてないし、常に旺盛な食欲を語っている。他隊員もすべて優秀なクライマーたちであったが、体調を崩してアタック隊の選に漏れていくのである。平常の体調を維持するのがいかに難しいか、ということである。
ドーピングの問題にも触れている。隊員たちはベンゼドリン(アンフェタミンの市販薬名で、覚醒剤の一種)を持参していた。ノイスは「これを使うのはスポーツ精神に反するような気がしてならなかった。それなら酸素はどうだということになると、私にはよく判らない」と記している。結局、隊員たちには使用しなかったようである。
本書は、サウスコルまで登ったノイスの克明な日記を基にして書かれた。その特徴は、通常の登山報告書にはない、登山者の登攀時におけるその内面が詳細に綴られていることである。
わがエヴェレスト
エドマンド・ヒラリー
松方三郎、島田巽・訳 
朝日新聞社 1956年
ヒラリーの手記
第1隊として頂上に向かったチャールズ・ワイリーとトム・ボーディロンが失敗したあと、ヒラリーとテンジンは第2隊として登頂に成功した。
ヒラリー自伝
エドマンド・ヒラリー
吉沢一郎・訳 草思社
★★★★★ Man of Everest
-the autobiography of Tenzin

ヒマラヤの男
テンジン述、アルマン記
井上勇・訳 1955年

(同著者、Ullmenの"Tiger of the Snows" も同じ本と思われる)
ヒラリーと初登したテンジンの自伝。口述筆記となっている。
テンジンに限らずクライミング・シェルパたちの、サーブの遭難にあたっての救出などにおける銭金に関係ない、単に献身的というのでもないあの行動は何なのか。時には、動けなくなったサーブに付き添って命まで落とす。シェルパにとって山登りは仕事である。そして生活そのものでもある。その生活を共にするサーブたちが危機に瀕している時に、自分の仕事はここまでと間単に割り切るのではない、人間として行動せねばならないような気持ちにつき動かされている。
特にイギリス隊のナンガ・パルバートの遠征ではそのような状況時のテンジンの心境がよく語られている。
この時の遠征はそもそも最初から計画していたものではなく、ちょっと登ってみようか、というようなところから、どんどん悪天候にもかかわらずこの小隊は、もうちょっともうちょっとと突き進んで行く。それはまるで山にとり憑かれたように、頂上の磁石から逃れられないように吹雪の嵐に吸引されていく。他のシェルパ3人は戻ろうという。しかしサーブの3人は登高意欲に燃え上がっている。テンジンは逡巡したが、その理性はシェルパの判断が正しいとする。そして、このような食料も装備もサポートも何もかもが不足しているにもかかわらず登り続ける狂気のサーブ3人ととうとう別れる。サーブは、自分たちに何かがあってもシェルパには責任はない、給料は全額支給すること、との書く付けをくれた。シェルパ4人はBCで2週間待機すると約束した。6日後に1人だけ下りてきた。その1人とテンジンを含めた2人のシェルパは、2人のサーブ救出のためにまた登っていったが、結局見つからなかった。
エベレストでもテンジンは、仕事を越えて、自分が登頂したいという意欲を見せている。この登高欲、あるいは熱情が初登をものにした根源である。

テンジンは、サーブ-シェルパの「雇主VS使用人」の立場にとらわれない、友人隣人のように接してくれたスイス人たちが特に好きなようである。これについては、長いが本書から引用してみよう。
しかし、イギリス人全体として考えるとき、彼らは、私が知っているほかの国々のたいていの人よりも、一層打ち解けにくく、格式ばっていることは事実である。特に私が思うに、彼らは異民族の人間に対するときにそうである。それはおそらく、イギリス人が長い間、東洋の支配者だったせいかも知れないし、あるいはまた、彼ら自らの本質のなかにあるなにかであったかも知れない。しかし、いずれにせよ、最近のここ数年、私たちシェルパが、ほかに多くの国の人びとと一緒に登山するようになって以来、私たちがしばしば観察する機会を持ったのは、イギリス人のそういう点だった。スイス人やフランス人と一緒だと、私たちは仲間として、平等な人間として取扱われたが、イギリス人には、そんなやり方は不可能だった。彼らは親切な人たちである。しかし同時に、いつでも彼らと、彼ら以外のものとの間、サーブと雇われ人との間に、ひとつの線がひかれている。「なにひとつ線のない」世界を経験したことのある、私たちシェルパのような東洋人にとっては、イギリス人のこうした態度は気詰りであり、ひと問題ともなり得る。
このイギリス人の階級意識を示す好例として、朝のお目覚め時の洗面のお湯、紅茶をシェルパに持ってこさせ、食事もテントも別という遠征登山のスタイルがある。この「しつけ」を仕込んだのは何時の遠征で、どのようにシェルパは感じたかなど興味のあることであった。
この背景には200年にも及ぶ大英帝国によるインド支配の間に培われた社会的主従関係があるのである。

上が1953年イギリス隊と、下が1952年スイス隊とエベレスト登山した時の写真である。(本書P.260)
下のテンジンに注目。このような格好はイギリス人にはなれなれしくてできなかったであろう。
1952年の秋の遠征後にランベールからもらった赤いスカーフをつけて53年に登頂し、その「登頂した」スカーフを再びランベールに返した。ランベールの気持ちを思い、ランベールの一部に登頂させたのであった。デンマンへの思いやりもそうである。

       

まことにテンジンの人生とエベレスト登攀史は表裏一体の関係といえる。実際、登頂後のカトマンズのお祭り騒ぎは、ヒラリーよりもテンジンの功績を称えるものであった。このテンジンの登頂に至る歴史を読むと、さまざまな遠征隊がテンジンを利用してきたのではなく、テンジンを登頂させるために遠征隊が次から次へとやって来たかのようにも思えてくる。
テンジンは7回目のエベレスト遠征でやっと登頂した。この初登までの初期の遠征で、7回もエベレストに遠征したものはいないだろう。いてもシェルパくらいだろう。しかしテンジンほど高みに達したものは誰もない。
本書は、アンマン(アメリカ人)というまたとない書き手を得て、エベレストの偉大さ、テンジンの人間性を、よく伝えている。アンマン自身、テンジンに惚れ込んでいる。訳文も非常にこなれており読み易い。ただ、原題通り、邦題も「エベレストの男」にすべきであった。
エベレスト本のうちではピカイチの名著である。
わが山エヴェレスト
テンジン
白水社 1979
★★★ テンジン
―エベレスト登頂とシェルパ英雄伝
ジュディ&タシ・テンジン
丸田浩+広川弓子・訳
晶文社 2003年
テンジンの最初の妻:ダワ・フチの娘:ペンペンの息子:タシ(つまりテンジンの孫)とその妻:ジュディ(オーストラリア人)との共著。テンジンの生涯をやや客観的に描き、タシ自身のエベレスト登頂(1993年のテンジン登頂40周年には雪盲のため未登頂、2回目の1997年に登頂成功/南東稜)と、その他のシェルパについてページが割かれている。本書は、登山隊の影としての役割に甘んじていたシェルパ自身に焦点を合わせた本であり、著者自身シェルパの誇りを再認識するとともに、シェルパ族について世に知らしめたい意欲が伝わってくる。西洋の文化や価値観が入ってきて、また経済的に裕福になっていくシェルパとその地域の大きな環境変化についても考えを述べている。
本書によると、最初にシェルパの山男としての資質(高度に対する順応力と過酷な自然に対する忍耐力)に注目し、登山家および高所ポーターとして訓練し始めたのは、スコットランド生まれのアレキサンダー・ミッチェル・ケラス(1868〜1921)であった。彼はすでに高度が人間に及ぼす影響を研究していた。
本書における多くの固有名詞の日本語表記など、いずれ改訂版が出るときにでも修正される必要がある。
★★★ エベレスト50年の挑戦
―テンジン親子のチョモランマ
ジャムリン・テンジン・ノルゲイ
ブロートン・コバーン
海津正彦・訳
廣済堂出版 2003
テンジンの3番目の妻:ダクの息子:ジャムリン(1965年生まれ。上記孫のタシは1964年生まれ)による、1996年のIMAX撮影隊(ブレッシャーズ隊長)隊員として登頂(南東稜)した記録。登山の進行の記述に沿って、父テンジンの足跡を回想する。本書の半分がその回想に割かれていて、その回想内容は上記「ヒマラヤの男」の内容とほとんど同じである。本書でジャムリンは、自身のエベレスト登山記録と父を理解していく過程を描くと同時に、アメリカに留学して先進国の文化への憧れ・失望を持った頃から、祖国シェルパの故郷における仏教に回帰していくこころの変遷を描いている。
上記「テンジン」と共に、シェルパの視点から書かれたもので、シェルパを知るためには貴重な本である。特に著者は、東洋と西洋の文化の間で、両者の価値観を比べつつ、シェルパ社会の将来を考える。
雲表に聳ゆる峰々
A.エグラー
横川文雄・訳
朋文堂 1958
1956年スイス隊によるエベレスト第2登の報告
エヴェレストの魅惑
G.シン
野間寛二郎・訳
ベースボール・マガジン社 1964
1960年インド隊、第1回の試みの報告。未登頂。
(インド隊は、1965年、3回目に登頂成功した)
エベレスト登頂記―1963年アメリカ隊
アルマン
ベースボール・マガジン社 1965
エヴェレスト日記
J.D.マッカラム
二見書房 1967
生と死の間―エヴェレストの四人
ウッドロー・ウィルソン・セイヤー
山崎安治・訳 
ベースボール・マガジン社 1967
1962年、ヌプ・ラ越えで7620mまで。
★★★ 1970年エベレスト登山隊報告書
日本山岳会
南東稜
★★ エベレストを越えて
植村直己
文芸春秋 1982年
日本人初登頂から冬期登山隊まで
★★ エベレスト・ママさん
田部井淳子
 
山と渓谷社 1978年
(新潮文庫 1982年)
1975年5月16日の女性初登頂に至る山登り半生記。

(写真:松本市アルプス公園内「山と自然博物館」所蔵、登頂時の装備)
★★ エヴェレスト 極点への遠征
ラインホルト・メスナー
横川文雄・訳
1978年、メスナーによる無酸素登頂(南東稜)の記録
無酸素登頂について、メスナーはこう書いている。
「ぼくは、なんとしてもエヴェレストを登るつもりでここへやってきたのではない。ぼくの願いは、エヴェレストを知ることであり、この山の偉大さ、困難さ、厳しさのすべてを知ることだった。だからぼくは、もし酸素マスクなしてエヴェレストが登れないのだったら、潔く頂上をあきらめる決心をしていたのだ。前に述べたように、近代的な酸素吸入器を使えばエヴェレストの頂上は高さが6000mの山に等しくなる。この6000mの高さを体験するために、わざわざエヴェレストまでやってくる必要はない。エヴェレストの偉大さを身をもって味わい、これをじかに感じ取るためには、どうしても技術的な方法なしで登らなければならない。そうやって登ったときに、ぼくには人間がそこでなにを感じるか、人間にとってどのような新しい次元が開かれるか、そして、果たして人間は、宇宙と新しい関係を結ぶことができるか、それがわかると思うのだ。」
チョモランマ・チベット
日本山岳会珠穆朗瑪登山隊
公式報告
講談社
1980年日本山岳会珠穆朗瑪登山隊による北稜-北東稜と北壁の初登頂の記録
チョモランマに立つ
日本山岳会隊
エベレスト中国ルート激闘全記録
読売新聞社
★★★ ヒマラヤへの挑戦 第1巻
アテネ書房
エベレストに登頂した日本山岳会登山隊、第2次RCC登山隊、日本女子登山隊、イエティ同人登山隊、山岳同志会登山隊、植村直己撮影隊などの記録をまとめてある。
★★ 精鋭たちの挽歌 運命のエベレスト
長尾三郎
1983年イエティ隊と山岳同志会の日本初無酸素登頂。
山岳同志会は南西壁から南東稜にルートを取った。
イエティ隊の吉野寛、禿博信の2名が登頂後遭難。
★★★ チョモランマ・サガルマータ1988
読売新聞社 1989
中国・日本・ネパールによる混成登山隊
北隊はチベットの北稜-北東稜(本書では北東稜)から、南隊はネパールの南東稜から登り、頂上で出会って、それぞれが反対側に下る交差縦走。
登路がつかみやすい写真が豊富で、登路、キャンプ地とその標高、行程表、記録、装備、食糧等について簡潔にまとめられている。エベレスト登山ガイドブックというのはまだ出版されてないが、その代用品として役立つ。
バリエーションルート
エヴェレスト登頂記
丹部節雄・訳 
1963年、アメリカ隊の公式記録。西稜から南東稜への初縦走。
★★★ エヴェレスト日記
青柳健・訳
1963年、アメリカ隊隊員の個人的記録。西稜から南東稜への初縦走。
エベレスト南西壁
大浦暁生、平林克敏・訳
1975年ボニントンによる南西壁初登頂記
★★★★ チョモランマ単独行
1985年
横川文雄・訳
メスナーによる無酸素単独登頂の記録。ノース・コルから北壁グレート・クーロアールを経て登頂。
前半は過去の登山隊の記録について多くのページが割かれている。限られた荷物に何を持っていくかは大変重要なことで、それにはルートがどんな状態であるかの研究は不可欠であることから、かなり研究していたようである。
実際の装備には、ロープ、アセンダ、ディセンダ、スノーバーなどは含まれず、1本のハーケン、ピッケル、そして2本のストックだけのようだ。NIPPINのゴアテックス特注テントを使用した。2本のストックは、クレバスを渡ったり、急斜面でのバランスに、大いに役立ったということだ。
BCに戻って来て待っていたニーナに会った時には、精魂尽き果て、エネルギーを使い果たしていた。
エベレスト北東稜
1995 登山報告書
1995年日本大学エべレスト登山隊による北稜-北東稜初登頂の記録
高齢登山者の挑戦
★★★★ 七つの最高峰
ディック・バス、フランク・ウェルズ、リック・リッジウェイ
三浦恵美里・訳
文芸春秋 1995年
ディック・バス(正式名:Richard Daniel Bass)とフランク・ウェルズが7大陸最高峰登頂を目指し、リック・リッジウェイが執筆した。
エベレストにはディック・バスだけが登頂した(1984年4月30日)。55歳での登頂は当時において世界最高齢であった。ブリーシアズ(「EVEREST非情の最高峰」では"ブレッシャーズ”)と共にノルウェイ隊に加えてもらい、シェルパのアン・プルバと3人で登頂(南東稜)。ディック・バスはアメリカの富豪で、登山ではアマチュアの域を出ないが、大変パワーのある人のようだ。
本書におけるエベレスト登山の記述の特徴は、他に類例を見ないほど、登路、登山生活、心情等について細かい描写があることだ。高所登山に慣れない人の経験談は、これから公募登山等で登ろうとする人には大いに参考になるだろう。この点においてはプロの登山家による描写はそっけないものである。
4度目のエベレスト登山においてやっと成功したが、まさに生死ぎりぎりのところでの生還だ。登頂とその後の下山の様子の詳細な行動、登路、内面の記述からは、ディックたちが登る1歩1歩が見えてきて、その息づかいまでもが聞こえてきそうだ。
たとえ優秀なガイドやシェルパが同行しても、やはりエベレストというのは一筋縄ではいかないことを教えてくれている。単純な思いつきで登れる山ではない。
2回目の試みの時には、同隊のラリー・ニールソンがアメリカ人として初めて無酸素登頂した(1983年5月7日、南東稜)。この無酸素登山の記述も詳しい。同年10月8日に日本人5名が無酸素登頂したが、いずれの場合も、下山時には疲労困憊して、他のメンバーやシェルパの助けなしには生還は非常に難しい状態であった。エベレストは、やはり生と死が紙一重のデスゾーンであることには変わりはない。
★★ 五十歳からのヒマラヤ
1996年
石川 富康
著者は57歳(1994年、南稜)、65歳の2回登頂(2002年、北稜)
還暦のエベレスト
1995年
宮原 巍
1994年10月(南東稜)、頂上の手前300mのところで著者は引き返した。低温、低酸素による視覚障害となっていた。一緒だった過去登頂1回の貫田宗男(「二人のチョモランマ」の著者)は無事登頂した。
著者はシャンボチェ上部にあるホテル・エベレスト・ビューのオーナー。
2005年にネパールに帰化し、政治活動に乗り出した。長野県青木村出身。
63歳のエヴェレスト
2003年
渡邉玉枝
(2002年、南東稜)
女性世界最年長登頂
★★ 70歳エベレスト登頂
2003年
三浦雄一郎
(2003年、南東稜)
この本もエベレスト登山を目指す人には良いヒントを与えてくれるでしょう。
チョモランマへの道
―小川誠写真集
2006年
小川 誠
★★ 私のエベレスト峰
2008年
柳沢勝輔
71歳2カ月の時に登頂(2007年、北稜-北東稜)。この年に最年長登頂記録を更新。
冒険家 75歳エベレスト挑戦記
2008年
三浦雄一郎
(2008年、南東稜)
最初、チベット側から登る予定であったが、中国オリンピックで聖火をチョモランマ頂上に上げるため、中国はエベレスト登山のための入境を禁止した。そのため、ネパール側南東稜に変更となった。
80歳登頂にむけて、まだ挑戦は続いている。(次は2013年=初登頂60周年)
(未刊) 空想的100歳登頂
(2030年)
100歳登頂のシナリオは?
100歳登頂はもはや個人的鍛練の次元でなく、インフラ如何にかかってきた。
まず、(シーズン毎に)サウス・コルに超大型ヘリで宇宙船の小型版のような建造物を上げてBCとする。その中には順化を終えた登山者の一群が乗船している。強風・豪雪にもびくともしないその建物は、まずサウス・コル到着時4つのアウトリガーが油圧で水平を整え、アームで外部の氷雪を内部に取り込んで、ソーラー発電での電気で水を作り、スタッフが調理し、ダイニングで提供する。キッチン、ダイニング、トイレ、バスルームの他は、カプセルホテルのように仕切られた登山者用ベッドが並ぶ。もちろん暖房完備、通信設備完備である。送られてきた気象情報をもとに登頂日が来た。各登山者はすでに張られた半恒久的アルミ製クサリや梯子を伝って、各自酸素を装備した先行するロボットに導かれ、ロボットの背後から延びる管から酸素を供給され、電動式アッセンダを握りながら、保温式ミトン、保温式超軽量二重靴装備、体重軽量化バルーン装備でひょいひょい登る。下りでは随所に滑り台が設置されている。一般的なタイムスケジュールは、朝3時出発、登頂11時、ロボットの中から温められた昼食と飲み物を取り出し頂上滞在1時間、サウス・コルに戻るのが17時・・である。
余談:この影響で、ちょうどバイパスが出来て旧商店街がさびれてしまうように、アイスフォールに梯子をかけたりするシェルパの仕事がなくなってしまった。またガイドそのものの仕事がなくなって、ガイドたちは救助隊の役割になってしまった。エベレスト産業はサウス・コルBCを扱う大手外資系資本に掌握されてしまったのである。これに対してネパール山岳協会やトレッキング協会が反発すると共に、世界の環境団体、登山家たちからも非難の声があがった。
一方、大手外資系資本もこれぞ究極の世界最高所ホテルとして大々的に広告を打って先行的に投資してきたからには引き下がれない。彼らの事業はますますヒートアップ。シェルパなどで構成される既存の団体でうるさいネパールを捨て、こんどはK2頂上に300mのビルを設置し、世界1の8911mの頂上を作ってしまう・・とまあこんな感じでしょうか?

●実際の100歳登頂のかすかな可能性は、現在、最多登頂更新中のアパ・シェルパが健在であれば、彼が100歳である2061年に達成されることになる。ネパールのシェルパたちが総力をあげてサポートしてタッセイサレネバナラナイ!
エベレスト大衆登山の幕開け
★★★★ INTO THIN AIR
Jon Krakauer・著、1997年

空へ
海津正彦・訳
文芸春秋 1997年
商業登山の公募が始まって以来、初めての大量遭難のルポ。ロブ・ホールの公募隊に参加した難波康子隊員は登頂後遭難死した。(南東稜)
エベレストのぼらせます
2000年
大蔵喜福・著
著者は2007年登頂。1985年カモシカ同人隊、冬期北壁アタックメンバー。
★★ エベレスト登頂請負い業
2011年
村口徳行・著
著者は日本人最多の7回登頂
この本も、エベレスト登山を目指す人は一読されるのがいいでしょう。




NEPALESE CLIMBERS on Mount Everest

By Ang Phurba Sherpa
and Ramesh Raj Kunwar

(Modern Printing Press, Kathmandu)

1st Edition 2002, 1000copies

Hard Cover Rs.1100
Soft Cover Rs.700

ISBN: 99933-756-0-8

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2001年までの全ネパール人登頂者の顔写真入りリストと個人情報。
巻末に外国人、女性、無酸素、死亡、等の登頂者リストもある。


Everest Summiteers Association

Summiteers Profile には、ネパール人のエベレスト登頂者リストがあり、写真と個人情報が掲載されている。こちらは世界のエベレスト登頂者リストです。



最年長登頂

◆以下の表で、日本が常に最年長登頂(最高齢登頂)を独走している底力がわかる。
健康寿命が75歳。この年齢で登頂すればすごい。まずこの年齢が限界であろう。
考えてみれば、日本人よりシェルパのほうが強いから、シェルパが記録を打ち破ってもよいはずである。
そうならないのは、75歳ともなれば全くの自力登山ではなくサポーターに依存しないではできないのが通常だが、シェルパがシェルパのガイドを金を出して雇うというのはあまり考えられないことによるといえるかもしれない。でもリッチなシェルパもいるから、これからのことはわからない。 



上記記事は数年前のものであるが、いよいよネパール人登場!

三浦雄一郎さんの2008年エベレスト登山
75歳の三浦さん世界記録なるか
あるいは、・・・
Min Bahadur Sherchan(77歳、ネパール人)も、最高齢登頂を目指して今年2008年にエベレストに挑む。残念ながら我がシェルパ族ではなく、タカリ族である。
彼がエベレスト登山の意向を発表したのは、エドモンド・ヒラリーが他界した翌日のことである。高齢者に元気を与え、ネパールの若者を鼓舞したい、そんな願いを語った。
Pemba Dorji Sherpa など12人のベテランシェルパがサポートする。(2008.1.25記)


社会実情データ図録より転載


  
高所登山に耐える体力と食事――ラインホルト・メスナーの例
ラインホルト・メスナーが高所登山の前に行った食生活は、まず、数日間、炭水化物の摂取を禁じ、登山の数日前から炭水化物ばかりを取る。これにより体は待ち望んでいた炭水化物をブドウ糖として吸収し、血糖に変える。これを肝臓や筋肉中のグリコーゲンとして蓄える。このような方法では、いつもの1.5倍のグリコーゲンを蓄えることができ、持久力が増大するという。
また、メスナーはニンニクを登山前に大量に食べたということだ。

【参考資料】
「スポーツマンの食卓」はまの出版、1992
この本には、その他各種スポーツの国内外著名選手の食事と体力作りについて述べています。
(マラソン、水泳、ゴルフ、ボクシング、サッカー、テニス、柔道、他)


また、登山活動に入ると、高所においては、今度は炭水化物を控えることが大切になってくる。控えることで肺におけるガス交換を促進し、酸素を有効利用できると云われる。



救難食糧/イーアール 
  • 航空自衛隊の飛行機・海上自衛隊の艦船に搭載されている非常食の民間販売用。
  • エネルギー:このサイズで総熱量489kcal(100gあたり)。
  • 調理不要:緊急災害時において、水の確保が困難な場合を想定し、調理不要ですぐ食べることができます。
  • 日本人に好まれる味日本人の嗜好に合うような和菓子風味。




8000m 14座の初登頂   (作成中)
初登頂日 山名 標高 標高順位 国名 登頂者人数* ルート
1950.6.3 アンナプルナT 8091m 10 フランス (2) 北氷河-鎌氷河-北壁
1953.5.29 エベレスト 8848m 1 イギリス (2) 南東稜
1953.7.3 ナンガパルバート 8126m 9 ドイツ(西独) (1)
1954.7.31 K2
(チョゴリ)
8611m 2 イタリア (2)
1954.10.19 チョーオユー 8188m 6 オーストリア (3)
1955.5.15 マカルー 8485m 5 フランス (9) マカルー・ラ-北西面
1955.5.25 カンチェンジュンガ 8586m 3 イギリス (2)
1956.5.9 マナスル 8163m 8 日本 (4) 北東稜
1956.5.18 ローツェ 8516m 4 スイス (2)
1956.7.8 ガッシャーブルムU 8034m 11 オーストリア (3)
1957.6.9 ブロード・ピーク 8051m 12 オーストリア (4)
1958.7.5 ガッシャーブルムT
(ヒドン・ピーク)
8080m 13 アメリカ (2)
1960.5.13 ダウラギリT 8167m 7 スイス (6)
1964.5.2 シシャパンマ 8027m 14 中国 (10)

*登頂者人数:初登頂に続く後日同隊アタック隊登頂者を含む。

当サイト提供: ヒマラヤン・シェルパ・アドベンチャー メール
 森崎 


 


番外・おすすめ名著

エベレスト以外の特に登山・冒険・文化人類学の分野から
これまで読んだノンフィクション数百冊の中より絶対おすすめ名著をご紹介
「ミニヤコンカ奇跡の生還」

松田宏也・著
山と渓谷社 1983
遭難記、東の横綱
遭難者本人の手記
2人で登山し、1人だけ生還した。しかもBCにはだれも待っていなかった。
「死のクレバス」よりも悲惨な生還劇だ。
この本は英語に翻訳されるべきだろう。
Touching the Void
Joe Simpson
「死のクレバス」
―アンデス氷壁の遭難

J・シンプソン・著
中村輝子・訳
岩波書店 1991
遭難記、西の横綱
遭難者本人の手記
2人で登山し、2人とも生還した。BCに待っている人がいた。
「ミニヤコンカ奇跡の生還」に比べればハッピーエンドだが、壮絶であることには違いはない。
この本(原著)は、カトマンズの新古書店ではどこでも置いているベストセラー。

以上、東西の横綱の2著に比べれば、例えば「空白の五マイル」(角幡唯介・著)、「垂直の記憶」(山野井泰史・著)などの生還劇の描写は幕下、十両クラス。筆力の差か・・?
「ヒマラヤの賦」
―ギャチュン・カン/バインター・ブラック/マナスル
吉沢一郎、河西俊郎、田村宣紀・著
桐原書店  1980
所収の3編とも人間味あふれるヒマラヤ登山記となっている。
長野県の登山隊とシェルパの交流が、登山そのものの記録より内容を占めている珍しい作品である。人間味は言葉以上に伝達力があるということの良い例証ともなっている。シェルパやシェルパニのおおらかさ、人の良さが十分に描かれているとともに、作者の人間味にこころ打たれる感動作品である。
或る本で、自身がシェルパを殴ったと書いている早稲田出身の某作者は、この本でも読んで、「人間性は人間性で返される」ということを学び、己がまともなサービスを受けられなかったのは己のせいであることを知るべきだろう。
パピヨン」

アンリ・シャリエール・著
平井 啓之
・訳
タイムライフブックス 1970
スティーブ・マックウィーンの映画で有名だが、原作が圧倒的に面白い。文学とは無縁のやくざな男が自身の経験を書いた、事実がもつ強みで読者をぐいぐい引き込んでいく、まさに映画の原作としては理想的なストーリー。

以上3著は、いずれも本人が書いたもので、やはり体験者本人が書くものがすぐれている。
「ブリンジ・ヌガグ」
―食うものをくれ


コリン.M.ターンブル・著
幾野 宏・訳
筑摩書房 1974
ピグミーの研究で有名な文化人類学者による、アフリカのイク族の生態記録。人間社会の負の可能性を示すノンフィクション。
読んでいて胸くそが悪くなる気の重い本。その意味ではあんまりおすすめではないかもしれない。
極限状態では人間社会はこうなるのか、その一例を示している。
現代の文明社会は、マイナスに向かわないようにしようと、人間の意識的な努力でなんとか成り立っているようだ。
「山と猟師と焼畑の谷」
―秋山郷に生きた猟師の詩

山田亀太郎・山田ハルエ・述
志村俊司・編
白日社 1983
長野県栄村の苗場山と鳥甲山に挟まれた谷に生きた山人夫婦の暮らしの聞き書き。昔の一猟師の人生記録といってしまえば何の変哲もないようであるが、熊との闘いで片目を失ったり、焼畑を拓く苦労などは壮絶と言える。一生涯にわたって続く食う為の山中での艱難辛苦は、お遊びの山登りの比ではない。「サバイバル登山」の作者もその方向を追求していけば、究極はこうした暮らしを志向するしかないだろう。そして、その上で、現代文明の意味、価値もあらためて再認識されてくるのだろう。
このような記録は、文を書く習慣のない山の人により通常は残されることはないと思うが、編者はよく本にしてくれたと思う。全く貴重な書物である。またその謙虚な姿勢には好感が持てる。名著として将来に残る本である。
「あゝ野麦峠」
山本茂実・著
朝日新聞社 1968

「『あゝ野麦峠』と山本茂実」
山本和加子・著
角川学芸出版 2010
この夫婦の著作はセットで読まれるべきものであり、両作品とも涙なくては読めないものである。
山本茂実の「あゝ野麦峠」はあらためていうまでもなく名著である。文学と社会学をあわせたような、人間感情を含む社会科学としてのノンフィクション大作というべきか。
そして、「『あゝ野麦峠』と山本茂実」をもってより一層の重みを増す。山本茂実の稀有な生涯を描きながら、「あゝ野麦峠」がいかに精魂込めて完成されたか、山本茂実ほどこの作品を書くにふさわしい人物はいなかったかをよく表している。和加子さん、よくぞこの本を書いてくれました!と言いたい。
1982年頃に山本茂実の講演を農協の一室で20人ほどのお百姓たちと共に聞いたことがある。松本市出身の山本茂実と同じ長野県でもあり、方言で気楽な雑談風のお話であった。戦争に対する恨み節でもあった。
しかし山本茂実を含め、そのような戦争体験をした弁達者、文達者連が多くいたはずなのだが、日本人は忘れっぽいのか、なぜ戦争に突入していったかを解明していく人を見ることができないのは何故だろうか。戦争で本当に悲惨な目に会った人たちは、その後の生活建て直しにおいても苦労続きで、心身共に疲弊しつくしたのだろうか。





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Everest News

All Mount Everest summiteers
エベレスト登頂者リスト

http://www.nationalgeographic.com/everest/
ナショナル・ジオグラフィックのエベレスト50周年特集


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