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エベレスト見参! 世界最高所リゾート コンデ・ホテル コンデ・トレック コンデ・トレック・リポート |
Mt.EVEREST |
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随時更新中です |
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【エベレストの記録】もご覧下さい。 |
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Everest Disaster, '96 |
エベレスト大量遭難 |
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1996年、プレモンスーンの5月10日、公募隊を主としたいくつかの登山隊が、いくつかの要因が重なって、大量遭難者を出した。 1. ジョン・クラカワー「空へ」文芸春秋(1997年刊)
3. ブロートン・コバーン「エベレスト―非情の最高峰」日経BP(1998年刊) 4. David F. Breashears "High Exposure: An Enduring Passion for Everest and Unforgiving Places" 5. Beck Weathers and Stephen P. Michaud "Left for Dead: My Journey Home from Everest" 6. Lene Gammelgaard "Climbing High: A Woman's Account of Surviving the Everest Tragedy" 7.Goran Kropp "Ultimate High: My Everest Odyssey" 8. Matt Dickinson "THE DEATH ZONE" Random House |
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マロリー遺体発見 '99 |
エベレスト初登頂! マロリーか、ヒラリーか? |
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1953年5月29日にヒラリーとテンジンが、ネパール側からエベレスト登頂を果たした。 1. ヨッヘン・ヘブラム他「そして謎は残った」文芸春秋(1999年刊)
2. David Breashears, Audrey Salkeld "Last Climb: The Legendary Everest Expeditions of George Mallory" National Geographic Society (1999) 3. ホルツェル&サルケルド「エヴェレスト初登頂の謎―ジョージ・マロリー伝」中央公論社(1988年刊) |
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◆ エベレストの地図、登頂ルート ↑北 ↑Rongbuku ↑Rongbuku (↑ Himalayan MapHouse 社。 NEPA MAPS シリーズ 「Mt. Everest より転載。元の 4万分図を少し縮尺しています。) 「ナショナル ジオグラフィック 2003年5月号」 特集:エベレスト |
エベレスト登頂ルート (最初の数字は上記地図のものと一致します) 作成中 | |||||
ルート | 登頂隊の国名 | 登頂者(国籍) | 登頂日 | 備考 | |
@南東稜 | イギリス隊 | ヒラリー(NZ) テンジン(印) |
1953.5.29 | ||
A北稜-北東稜 | 中国隊 | 史占春 | 1960.5.25 | 北稜から上部北東稜。本当に登頂したのか未確認 | |
B(一部)西稜 | アメリカ隊 | 1963.5.22 | 北壁トラバース〜西稜(最終の800フィート) | ||
C南西壁 | イギリス隊 | ボニントン | 1975.9.24 | ||
D(全)西稜 | ユーゴラスビア | 1979.5.13 | |||
E北壁 | 日本隊 | 1980.5.10 | ホルバイン・クーロアールから | ||
Fサウス・ピラー東側 | ポーランド隊 | 1980.5.19 | |||
Gノース・コルから北壁 | 単独 | メスナー | 1980.10.20 | 上部グレート・クーロアール経由 | |
H南西壁から西稜 | ソビエト連邦隊 | 1982.5.4 | |||
I東壁 | アメリカ隊 | 1983.10.8 | |||
11.北壁 | オーストラリア隊 | 1984.10.3 | グレート・クーロアールから | ||
12.ノース・コルから北壁 | アメリカ隊 | 1984.10.20 | 1980年のメスナーより下部よりグレート・クーロアールに取り付く | ||
13.東壁南面バットレス | 国際隊 | 1988.5.12 | |||
14.北東稜 | 日本隊 | 1995.5.11 | 東ロンブク氷河から全北東稜 | ||
15.(上部)北東稜 | ロシア隊 | 1996.5.20 | クーロアールから上部北東稜 | ||
公募隊の一般ルート @ネパール側のサウス・コルから「南東稜」(「東南稜」とも呼ばれる):ヒラリーとテンジンが初登頂時に辿ったクラシックルート Aチベット側「北稜-北東稜」(ノース・コルから北稜を経て上部で北東稜に合流):マロリーが発見したクラシックルート (当サイトでは、従来「北東稜」と呼ばれるこのチベット側古典ルートを、1995年日本隊の「北東稜」ルートと区別するため、「北稜-北東稜」と記載します。これは現在、単に「北稜」とも呼ばれます。 北稜ルート案内 以上のいずれかのルートを取ります。 @はルクラに飛んで、エベレスト街道からベースキャンプに入ります。 Aは陸路ザンムから国境を越えてチベットに入り、車でベースキャンプ入りします。 一般的登頂日は、春秋2回それぞれ5/中旬、10/中旬頃です。 いずれも最低 2カ月を要します。 手始めに、サウス・コルだけ、あるいは、ノース・コルのみ登る公募もありますのでお問い合わせ下さい。
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エベレストの記録 (2011.06 現在) |
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<参考>「エベレスト―非情の最高峰」(日経BP) |
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初登頂(南東稜) |
1953.5.29 |
英国隊 エドモンド・ヒラリー(NZ,2008.01.11に死亡、享年88歳)& テンジン・ノルゲイ・シェルパ(ネパール)。第2登はスイス隊、1956年。 女性では、田部井淳子(1975年5月16日、南東稜)が初登。わずか11日遅れて5月27日中国隊(王富洲)が女性第2登。 日本人初登頂(南東稜)は、1970.5.11松浦輝夫と植村直己、5.12平林克敏。 |
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単独初登頂 |
1975.9.26 | ミック・バーグ 登頂後行方不明 |
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無酸素初登頂 |
1978.05.08 |
ラインホルト・メスナー(イタリア)& ペーター・ハベラー(オーストリア) | ||
無酸素単独初登頂 |
1980.08.20 |
ラインホルト・メスナー(伊 1944〜) |
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冬期(冬季)初登頂(南東稜) | 1982.12.27 | 加藤保男 これにより、初の3シーズン登頂も成し遂げた。 彼は、1973.10.26に秋期初登頂(南東稜)を成し遂げている。1980.03.5には、北稜-北東稜からも登頂したことにより、初の両ルート登頂者となっている。 これに先立って、1980.2.17、ポーランド隊(A.ザワダ隊長)のレゼク・チヒとクルツィ・ビエリツキが登頂したが、ネパール政府が定める冬期とは、12月と1月であることから、冬期登山とは認められていない。 無酸素冬期初登頂は、1987.12.22、アン・リタ・シェルパ。 |
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最多登頂 |
2011.05.11 |
アパ・シェルパ 21回、(1960年生まれ、ネパール人)。 |
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最年長登頂 |
2013.05.23 |
三浦雄一郎、80歳でネパール側南東稜より登頂。 2009年には最年長記録は更新されなかったが、2010年5月に、 Sailendra Kumar Upadhyaya (ネパールの元外務大臣、下写真2枚、80歳)
が記録更新に挑むことを2009.5.17に記者会見で表明した。 2013年春、上記 Min Bahadur Sherchan(82歳、ネパール人)が再度エベレスト(南東稜)に挑戦する。年齢82歳というのはネパールの暦によろもので、正確には81歳かも知れない。 |
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最年少登頂 |
2010.05.22 |
ジョージ・ロメロ(13歳,アメリカ) |
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盲人初登頂 |
2001.05.24 |
エリック・バインメイヤー |
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最短時間登頂 |
2004.05.21 |
ペンバ・ドルジ・シェルパ (26歳), ベースキャンプ(5300m)から、8時間10分で登頂。 |
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頂上最長時間滞在 |
1999.05.07 |
バブ・チリ・シェルパ (33歳)21時間滞在 |
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同シーズン2回登頂 | 1995.5.26 | バブ・ツェリン・シェルパ Babu Tshering Sherpa |
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4ルート登頂 | 1995.5.11 | ラクパ・ヌル・シェルパ | ||
父子同時初登頂 | 1990.10.7 | Jean Noel Roche と Bertrand Roche (仏)の父と息子は初めて一緒に登頂した。息子 Bertrand Roche はネパール人以外では最年少男性の17歳。 | ||
父娘同時初登頂 | 2007.5.16 | Samantha Larson (18)と父 David (51)は共に登頂。(アメリカ) Samantha Larson (18)はネパール人以外では最年少女性 |
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夫婦同時初登頂 | 1979.秋 | ゲルハルト・シュマッツ(50)と夫人のハンネローネ(39) (西独) その他、1991.5.20, Andrej Stremfelj と Marija Stremfelj (ユーゴラスビア) |
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兄弟同時初登頂 | 1992.9.25 | Alberto Inurrategi と Felix Inurrategi (スペイン) | ||
初2世登頂 | 1990.5.10 | ピーター・ヒラリー(NZ) は、エドモンド・ヒラリーの息子。 | ||
初3世登頂 | 1997.5.23 | タシ・テンジン(オーストラリア) は、テンジン・ノルゲイの孫。 | ||
海抜0メートルから登頂(世界初) | 1990.5.11 | Tim McCartney-Snape (オーストリア) 南東稜から無酸素登頂。 |
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海抜0メートルから登頂(日本初) | 2005.5.30 | 岩崎圭一は、無銭旅行の途中に思い立って2005.5.31登頂。登頂後、またインドの海抜0メートルに自転車で戻った。 無銭旅行記は→こちら |
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初公募隊 | 1986.秋 | アウゼリン・スポーツ主催(スイス) フレディ・グラーク隊長ら25人とシェルパ16人。 |
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初シェルパ登山隊登頂 | 1991.5.8 | 隊長、隊員、高所ポーターすべてシェルパだけで構成された登山隊。 1990年には、初めてネパール人のみの登山隊(ネパール王立陸軍隊)が登頂している。 |
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ヘリ初着陸 | 2005.05.14 | Didier Delsalle (48, フランス)は、Eurocopter (フランスの会社)のヘリ(AS350 B3 helicopter)
で、初めてエベレスト頂上に着陸した。 YouTubeへのリンク:Eurocopter AS350 B3 Everest summit landing これまでヘリ着陸最高所は、6,096mであった。(ネパール空軍中佐:Madan Khatri Chhetri が、1996年に、Beck Weathers と Makulu Gau を、Camp I で救出した時) (参考)過去ヘリ到達最高所は、12,442mであった。 by Jean Boulet in 1972 |
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パラグライダー初飛行 | 1988.9.26 | Jean-Marc Boivin (仏) 南東稜から登頂し、頂上からパラグライダーでC2まで飛んだ。 |
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携帯初コール | 2007.05.21 | Rod Baber (イギリス)、初テキストメールも送ったとのことである。 China Telecom はチベット側に中継基地を設置し、エベレスト北稜からの電波をキャッチできるようサポート。 |
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初頂上テレビ中継 初南北交差縦走 |
1988.5.5 | 日本テレビ開局35周年記念として、中国、日本、ネパール合同のチョモランマ/サガルマータ友好登山隊による、北稜(北隊)と南東稜(南隊)の交差縦走の際に中継された。 ●岩下莞爾「テレビがチョモランマに登った」(日本テレビ、1989)に詳しい。著者は北隊のテレビ隊長。テレビ隊の登攀隊長は中村進。 ●「チョモランマ・サガルマータ1988」読売新聞社 1989 |
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1日最多人数登頂 | 2008.05.26 | ネパール側からの登頂者:76名 | ||
登頂者数 |
2010年 | 3431人(のべ5070人) これに関して、オフィッシャルデータベースはありません。 日本人は、ネパール人、アメリカ人に次いで第3位 下表参照 |
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死者数 | 2007年末 | 217人 (死者の画像1、2、 ) |
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エベレストを試食する?!
ノース・コル登山 公募 |
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エベレストを見るカラパタール・トレッキングもあります。ベースキャンプ訪問も可能です。 | ||||
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エベレストゆかりの日本人著名登山家 (作成中) | |||
登山家 | 登頂日 | 活動 | |
植村 直己 | 日本人初登頂。冬期マッキンリーにて遭難。 | ||
加藤 保男 | 春秋冬3回登頂。冬期登頂後遭難。 | ||
田部井淳子 | 女性として世界初登頂 | ||
尾崎 隆 | 1980 1983 |
2回登頂 植村直己冒険賞第1回受賞 2011.5.13エベレスト頂上付近で高山病のため死亡 夫人は以前、在ネパールフランス大使館勤務 |
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山田 昇 | |||
重廣 恒夫 | 尾崎隆と共に北壁初登頂 | ||
渡邉 玉枝 | 2012.5.19 | 世界女性最高齢登頂(73歳) | |
三浦 雄一郎 | |||
シェルパ列伝 | |||
エベレスト登山史 (作成中) | ||||
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西暦 | 遠征隊の国名 | ルート | 到達点 | 遠征の概要 ●関連文献 |
1852年 | 1949年に測量され、計算の結果、Peak XV が8840mであり、世界最高峰であるとされた。前任の測量局長官ジョージ・エヴェレスト卿の名前にちなんで Peak XV は Everest と命名された。 | |||
1921年 | イギリス | チベット (北稜) |
ノース・コル | 第1回イギリス遠征隊、ハワード・バリー隊長。 9月24日、マロリーはノース・コルに達し、北面(チベット側)の登路を発見した。 ●F.E.ヤングハズバンド「エヴェレスト登山記」第一書房 写真:「世界山岳名著全集9 エベレスト登頂」(あかね書房)グラビアより転載 【註】日本の登山史において初めて雪中にテントを設営したのは、慶応大学山岳部による1932年(昭和7年)12月のことであった(西穂高森林限界上部)。これを考えると、1921年の遠征での最高所キャンプ地ラクパ・ラ6849mにテントを設営したイギリスはかなり進んでいたといえるだろう。 |
1922年 | イギリス | チベット (北稜) |
8326m | 第2回イギリス遠征隊、チャールズ・ブルース隊長 5月21日、マロリー、ノートン、サマヴェルが無酸素で8225m(チベット側)に達した。これは、人類が初めて8000mを越えた記録である。 5月27日、2次隊のフィンチとブルースが、酸素を使って8326mに到達。 ●F.E.ヤングハズバンド「エヴェレスト登山記」第一書房 写真:「世界山岳名著全集9 エベレスト登頂」(あかね書房)グラビアより転載 |
1924年 | イギリス | チベット (北稜) |
8572m | 第3回イギリス遠征隊、チャールズ・ブルース隊長は途中病気で倒れ、代わってエドワード・F・ノートン隊長。 6月4日に2次隊のノートンが無酸素で8572m(チベット側)に達した。 3次隊のマロリーとアーヴィンは6月9日酸素を持って頂上に向かったが、その後行方不明になった。 ●ノートン「エヴェレストへの闘い」あかね書房 ●F.E.ヤングハズバンド「エヴェレスト登山記」第一書房 写真:「ヒマラヤ名著全集3 エヴェレストへの闘い」(あかね書房)グラビアより転載 |
1933年 | イギリス | チベット (北稜) |
8572m | 第4回イギリス遠征隊、H・ラトレッジ隊長。 5月30日にハリスとウェイジャーが、5月31日にスマイスが、いずれも8572m(チベット側)に達した。 ●H.ラトレッジ「エヴェレスト探検記」岡倉書房 1941 (原題"Everest 1933"1934) ●F.S.スマイス「キャンプ・シックス」朋文堂 1959 (原題"Camp Six"1937) 写真:「世界山岳名著全集9 エベレスト登頂」(あかね書房)グラビアより転載 |
1934年 | イギリス | チベット (北稜) |
ノース・コル手前 | モーリス・ウィルソン(イギリス陸軍元大尉、37歳)。初めて単独での試み。無許可。 当初エベレスト山麓に飛行機でできるだけ高いところに着陸して登山を試みる予定であった。しかしインドまで自家用軽飛行機で来たものの、チベットへの国境越えは許可されず、陸路をチベット人に変装して3人のシェルパとロンボクまで行き、その後単独で向かった。結局ノース・コル手前のテントで死亡。最後の日記は5月31日で終わっている。 ●Dennis Roberts; I'll climb Mount Everest alone. The story of Maurice Wilson. London, Hale, 1957 ●R.メスナー「チョモランマ単独行」山と渓谷社 1985 のP.80〜106に詳しい。 |
1935年 | イギリス | チベット (北稜) |
ノース・コル上 | 第5回イギリス遠征隊、シプトン隊長。 20才の頃のテンジンが最初に遠征隊に参加したのはこの隊であった。ダージリンでシェルパを募集する際、シェルパ要員が2名不足し、その補欠としてシプトン隊長によって選ばれたのが、テンジンが山男になる最初のキッカケとなった。 この遠征時、テンジンはイエティに出会ったという。 また、ノースコル下のキャンプで上記ウィルソンの死骸を発見し、埋葬した。 テンジンが達した最高所はノースコルであった。この時テンジンはもっと高みに登りたい熱情を自覚している。 ●N.テンジン述、アルマン記「ヒマラヤの男」紀伊国屋書店1955 |
1936年 | イギリス | チベット (北稜) |
ノース・コル | 第6回イギリス遠征隊、H・ラットレッジ隊長。 テンジンも参加 |
1938年 | イギリス | チベット (北稜) |
8300m | 第7回イギリス遠征隊、ティルマン隊長。 テンジンも参加。この時、テンジンはタイガーメダルをもらった。 写真:「世界山岳名著全集9 エベレスト登頂」(あかね書房)グラビアより転載 |
1947年 | カナダ生まれのイギリス人、在アフリカ | チベット (北稜) |
ノース・コル手前 | E・デンマンが無許可単独登山。250ポンド(約25万円)を資金にアフリカからインドに船で渡り、ダージリンからテンジン・ノルゲイとアン・ダワを伴って、シッキムからコン・ラ越えでチベットに入り、ロンボクからコルに向かうが悪天候で断念した。テンジンは最初から、資金も装備も何もないこのような条件で登れるわけがないとはわかってはいたが、エベレスト登山の誘惑には抗しがたく同行を了承したのであった。 翌1948年にもまたやってきたが、チベット国境警備が厳しく、入国許可なしでは越境できなかったので、やむなくアフリカに戻った。 この時にデンマンからもらったバラクラバ・ヘルメットをかぶって、53年にテンジンは初登頂した。 ●Earl Denman; Alone to Everest, London, Collins, 1954 ●N.テンジン述、アルマン記「ヒマラヤの男」紀伊国屋書店1955 ●R.メスナー「チョモランマ単独行」山と渓谷社 1985 のP.106〜111 |
1950年 | アメリカ・イギリス合同 | ネパール クーンブ |
5500m アイスフォール入口 |
第2次大戦がはじまり、チベットは中共軍により占拠され鎖国し、一方ネパールが開国した。前記ティルマンも参加し、初めて南面に第1回偵察隊(C.ヒューストン他)が入り、これより南面(ネパール側)からの攻撃が始まる。 |
1951年 | デンマーク | チベット (北稜) |
ノース・コル手前 | K・B・ラルセンは、無許可単独でシェルパ7人を伴い、ダージリンからネパールに入り、最初ウエスタンクームへ行こうとしたが断念し、ナンパ・ラ越えでチベットに越境。ロンボクからコルに向かうが、装備不十分で途中シェルパに同行拒否され断念。 ●R.メスナー「チョモランマ単独行」山と渓谷社 1985 のP.111〜114 |
1951年 | イギリス | ネパール クーンブ |
ウエスタン・クーム西端 | エベレスト南面(ネパール側)ルートにおける第2回イギリス偵察隊、シプトン隊長。初めてアイスフォールを越えた。サウスコルからの登頂可能性を見出した。 |
1952年 春 |
スイス | ネパール (南東稜) |
8595m | この年、ネパールによりエベレストの登山を許可されたのはスイスであった。イギリスとの合同隊の話もあったが、どちらを隊長にするかでもめて、破談になった。 スイス隊はテンジンに同行を依頼した。 アルプスのガイドのランベールとテンジンが、サウスコルを越えて、5月27日8400mでビバーク。サウスコルでサポートのシェルパ3人が力尽きて下ってしまい、十分な食料・装備がなかったので、この最終キャンプからさらに2名のスイス人隊員が下のキャンプに下った。テンジンたちにはストーブやシュラフはなく、テントとローソクのみ最終キャンプであった。眠ることなく翌5月28日、悪天候の中を2人で交代で突き進み、8595mに到達し、そこで引き返した。酸素器具は役に立たなかった。第2隊も高山病と寒気に阻まれて撤退した。 ●R.ランベール「山に闘う」三笠書房1956 ●N.テンジン述、アルマン記「ヒマラヤの男」紀伊国屋書店1955 |
1952年 秋 |
スイス | ネパール (南東稜) |
8100m | イギリスが来年の登山許可を取っているので、どうしても頂上を陥落させねばと、同年秋雪辱を期して臨んだ。今回テンジンは、サーダー兼スイス隊隊員の一員としての待遇であった。 ローチェ斜面をサウスコルの向かう途中氷塊が落下してきて、シェルパのミンマ・ドルジェに氷の破片が突き刺さり、肺に達して死亡した。 11月20日に8100mに達するも、冬はもうそこまで来ており、とうとう寒気と強風に押し返されて断念し、多くの食料、装備を投げ捨てて逃げ帰った。この食料の恩恵を受けたのは、翌年のイギリス隊であった。 スイス人たちは、「エベレストから追放された」と表現し、無念の思いで攻撃を終えた。 この遠征のあと、ランベールは首にまいていた赤いスカーフをテンジンに与え、再会を誓った。 ●N.テンジン述、アルマン記「ヒマラヤの男」紀伊国屋書店1955 |
1952 | ソ連 | チベット | 8200m | チベット側からソ連隊が登頂を試みたとされるが、公式記録はない。 (最終キャンプ:8200m、アタック隊6名は行方不明) 他の8000m峰でもソ連はヒマラヤ登山史上に全く登場しない。大国ソ連の唯一の記録である。 1958年には春秋2回、中ソ合同登山隊(偵察隊)が出ている。2回共、6200m〜6700mで終わっている。 |
1953年 | イギリス | ネパール (南東稜) |
頂上 | 5月29日、エベレスト初登。 ハント隊長は、前年のスイス隊の敗退を踏まえ、周到に準備した。酸素器具の改良、シェルパによるルートフィックスと荷揚げのあと、高所順化に時間をかけ力をセーブした隊員が攻撃をかけた。 第1隊のボーディロンとエヴァンズは、5月26日南峰頂上8760mに達した。 第2隊のヒラリー(33歳)とテンジン(39歳)は、スイス隊最高到達地点8595mの少し下に第9キャンプを設け、5月29日、快晴の中、6時半出発、9時に南峰、11時半に頂上に到達した。 1909年のペアリーによる北極、1911年のアムンゼンの南極到達に続いて、第3の極地と言われるエベレストがここに人類によって到達された。 最終キャンプでは、ヒラリー、テンジンにより、PRIMUSのストーブが携行された。 (1892年、リンドクヴィストが発明したPRIMUS プリムス・ストーブが発売され、1911年、アムンゼンの南極点到達にPRIMUSストーブが携行された。こうした技術の進歩があって初めてこれらの偉業が可能であった。) また、ウォーキー・トーキーも活躍した。これがないということは、各キャンプや登頂隊との連絡がとれず、現在地の確認ができない、下から食料やサポートは来るのか、どこのテントにはその日何人宿泊予定か、等々、定められた予定通りに行動できない天候の中で、連絡を取り合えないとういうかつての条件は致命的でさえあった。 ●J.ハント「エベレスト登頂」朝日新聞社1954、朋文堂1960、あかね書房1966、河出書房新社1977 ●E..ヒラリー「わがエヴェレスト」朝日新聞社1956 ●W.ノイス「エヴェレスト―その人間的記録」文芸春秋新社1956、筑摩書房1966 ●N.テンジン述、アルマン記「ヒマラヤの男」紀伊国屋書店1955 写真:"THE ASCENT OF EVEREST" 原著より転載 |
1956年 | スイス | ネパール (南東稜) |
頂上 | エベレスト第2登。アルバート・エグラー隊長。 5月18日にまずローツェに登頂。5月23日、シュミートとマーメットがエベレスト登頂。 24日に2名登頂、合計4名登頂。 |
1960年 | 中国 | チベット (北稜-北東稜) |
登頂したと のことだが 未確認 |
チベット側からの初登頂 史占春隊長。 登頂したのは、王富州、屈銀華、貫布の3名。 ●人民体育出版社編「中国の登山運動」外文出版社、1964 |
1963年 | アメリカ | 西稜〜南東稜 | 頂上 | 西稜から南東稜への初縦走 5月1, 22日、計6名登頂 ●アルマン「エベレスト登頂記―1963年アメリカ隊」ベースボール・マガジン社1965 ●J.D.マッカラム「エヴェレスト日記」二見書房1967 |
1965年 | インド | 南東稜 | 頂上 | 5月20, 22, 24, 29日に合計9名登頂。M.コーリ隊長。 |
1970年 | 日本 | 南東稜 | 頂上 | 5月11, 12日、計3名登頂 ●日本山岳会「1970年エベレスト登山隊報告書」 |
1973年 | イタリア | 南東稜 | 頂上 | 5月5, 7日、8名登頂。G.モンジーノ隊長。 |
1973年 | 日本 | 南東稜 | 頂上 | 1973.10.26に、加藤保男と石黒久が秋期初登頂。水野祥太郎隊長。 |
1975年 | 日本 | 南東稜 | 頂上 | 5月16日、田部井淳子がアン・チェリンと共に登頂。 日本女子隊(久野英子隊長) |
1975年 | 中国 | チベット (北稜-北東稜) |
頂上 | チベット側から5月27日、9名登頂(女性1名含む。田部井淳子登頂の11日後)。 史占春隊長。 ●人民体育出版社編「中国の登山運動」外文出版社、1964 |
1978年 | オーストリア | 南東稜 | 頂上 | 1978.05.08、オーストリア隊(W.ナイルツ隊長)が、5月3,8,11,13日に合計9名登頂。そのうち、ラインホルト・メスナー(イタリア)& ペーター・ハベラー(オーストリア)は無酸素初登頂。 |
1980年 | 日本 | チベット 北稜-北東稜と北壁 |
頂上 | 北稜-北東稜の隊は加藤保男が登頂(5月3日、20:55)。10分後下山、しかし暗闇で危険なため途中でビバーク。下に不調のため待っていた中村進が第2ステップ上部8600m余でビバークするのをヘッドランプで確認。共に酸素、食糧なし。5月4日、両名合流し、サポート隊と共に、第6キャンプに戻った。 北壁隊は尾崎隆(5月10日、20:50)と重廣恒夫(5月10日、21:02)が登頂。17時頃に酸素がなくなる。8600mでビバーク(食糧なし)。5月11日正午前、最終キャンプに戻った。 ●日本山岳会「チョモランマに立つ」読売新聞社 |
1980年 | イタリア | チベット 北稜-北壁 |
頂上 | 1980.08.20、ラインホルト・メスナーが無酸素単独登頂。 |
参考文献: 深田久弥「ヒマラヤの高峰1」(白水社) 1983 のエヴェレストの項 「エヴェレストへの闘い」(あかね書房) 1968 の解説(吉沢一郎) 「世界山岳全集6」(朋文堂) 1960 の解説(望月達夫) ラインホルト・メスナー「エヴェレスト 極点への遠征」(山と渓谷社) 1979 の『エヴェレストの25年』の章 ウィリアム・H・マーリ「はるかなるエベレスト」(あかね書房) 1966 その他、Webサイト |
各国エベレスト登頂隊の行動時間一覧 (米国B以外いずれも南東稜) ―「エベレストへの道」(NHK昭和46年刊)から引用 | ||||||||||||
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遠征隊 | 上り | 登頂 | 下り | 最終キャンプC〜8848m | ||||||||
国名 | 年月日 | 最終C発 | 頂上着 | 所要時間 | 速度m/h | 滞頂時間 | 頂上発 | 最終C着 | 所要時間 | 速度m/h | 最終C高度 | 高度差m |
英国 | 1953.5.29 | 6:30 | 11:30 | 5:00 | 76 | 0:15 | 11:45 | 14:00 | 2:15 | 168 | C9: 8470m | 378 |
スイス@ | 1956.5.23 | 8:30 | 14:00 | 5:30 | 82 | 1:00 | 15:00 | 17:00 | 2:00 | 224 | C7: 8400m | 448 |
A | 1956.5.24 | 6:45 | 11:00 | 4:15 | 105 | 2:00 | 13:00 | 14:00 | 1:00 | 448 | 〃 | 〃 |
米国@ | 1963.5.01 | 6:15 | 13:00 | 6:45 | 72 | 0:20 | 13:20 | 17:45 | 4:25 | 110 | C6: 8360m | 488 |
A南東稜隊 | 1963.5.22 | 8:00 | 15:30 | 7:30 | 65 | 0:45 | 16:15 | 23日0:30〜6:00 ビバーク | 〃 | 〃 | ||
B西稜隊 | 1963.5.22 | 7:00 | 18:15 | 11:15 | 50 | 0:15 | 18:30 | 南東稜隊と共にビバーク | C5: 8270m | 568 | ||
インド@ | 1965.5.20 | 5:00 | 9:30 | 4:30 | 74 | 0:30 | 10:00 | ? | ? | ? | C6: 8513m | 335 |
A | 1965.5.22 | 6:30 | 12:30 | 6:00 | 56 | 0:50 | 13:20 | 19:00 | 5:40 | 59 | 〃 | 〃 |
B | 1965.5.24 | 5:00 | 11:00 | 6:00 | 56 | 0:45 | 11:45 | 16:15 | 4:30 | 74 | 〃 | 〃 |
C | 1965.5.29 | 5:30 | 10:00 | 4:30 | 74 | 0:30 | 10:30 | 15:30 | 5:00 | 67 | 〃 | 〃 |
日本@ | 1970.5.11 | 6:10 | 9:10 | 3:00 | 112 | 1:00 | 10:10 | 11:40 | 1:30 | 223 | C6: 8510m | 338 |
A | 1970.5.12 | 5:55 | 9:55 | 4:00 | 85 | 0:30 | 10:25 | 13:10 | 2:45 | 122 | 〃 | 〃 |
エベレスト本 上記エベレスト登山史の流れに沿ってご紹介します (作成中) |
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おすすめ度 5段階 (暫定評価) |
原題 翻訳書 |
解説 |
古典 エベレスト登山史、ヒラリー、テンジンについて | ||
★★★★ | THE STORY OF EVEREST W.H.Murray・著、1925年 はるかなるエベレスト 山崎安治・訳 二玄社 1963 あかね書房 1966 |
1852年、世界最高峰がエベレストであるとの発見から、登山の対象とされ、登路の探索、登頂に至るまでの初期登山の歴史を描いている。まさに題名通りのエベレスト物語。この本の大半は、マロリーたちによるチベットからの北面からの登路の発見と、ノートンが無酸素で8572mに達し、第2次世界大戦でチベットが鎖国となるまでの活動に割かれている。大戦後ネパールが開国し、1952年南面からのスイス隊の攻撃で8595mに到達、1953年ついにイギリス隊が登頂の栄誉を勝ち取る経過を、最後の2章で描く。登山の醍醐味は、なんといっても登路を見つけるという探検的な活動から始まり登頂に至るまでの過程にある。その過程で、彼らは、エベレストの気候・温度・風、登山適期、酸素濃度、高所順応、装備改良、等々について学んでいった。初期登山家のそれらの活動があっての1953年の成功がある。その意味で、登頂は、1953年の登山隊のみによって勝ち取られた成功でなく、それまですべての登山隊の総決算であることが、本書によってよく理解できる。 |
★★★★ | THE FIGHT FOR EVEREST E.F.Norton・著、1924年 エヴェレストへの闘い 山崎安治・訳 あかね書房 1968 |
1924年、第3回イギリス遠征隊(チベット側)の隊員たち自身による記録。 ヤングハズバンドが優れた序言を書いている。 |
★★ | Camp Six F.S.Smythe・著, 1937年 キャンプ・シックス F.S.スマイス 伊藤洋平・訳 朋文堂 1959 |
1933年春、第4回イギリス遠征隊(チベット側) 烈風に苦しめられ、困難を極めた登攀の記録。 エベレストがいかに難しいか描写している。 8572mで敗退。 |
★★★★ | THE ASCENT OF EVEREST J.Hunt・著、 Hodder & Stoughton, 1953 エヴェレスト登頂 田辺主計,望月達夫・訳 朝日新聞社 1954年 |
1953年ハント隊長(42歳)によるエベレスト初登頂(ネパール側、南東稜)の記録。 指揮官らしく、計画、行動、装備、食糧、タクティックス、天候、隊員、シェルパ等、すべてに目が行き渡った登山記録になっている。また、すべての隊員、高所シェルパに対して、本書の中でその健闘ぶりを称えて、登頂した2人だけでなくすべての隊員たちが登頂に欠かせない存在であることを強調すると共に、前年のスイス隊をはじめとするこれまでの登山隊や、装備、食糧、手続き、その他科学におけるサポートをした人たちに対しても、この成功に当たっての貢献を称える配慮をして、よき指揮官、統率者であったことを窺わせている。そして、自らも、計画遂行を支えるべく、8341mまで30kgの荷揚げを敢行し、成功への渾身の意欲を見せている。 サウス・コル、最終キャンプ、登頂の3日間(5/27,28,29)についてはヒラリーが執筆している。 ハント、 ヒラリー、 ロウ、 ノイス、 ボーディロン、 ワイリー テンジン、エヴァンズ、バンド、グレゴリー、ウェストマコット、ウォード 写真:"THE ASCENT OF EVEREST" 原著より転載 |
★★★★ | South Col W. Noyce, 1953 エヴェレスト―その人間的記録 W.ノイス 浦松佐美太郎・訳 文芸春秋新社1956、筑摩書房1966 |
隊長のジョン・ハントは、マロリーがエベレスト登頂成功について知ったら喜んだことだろうと言ったという。ハントが「登山隊」という時、「登山隊」とは、マロリーを含めた過去のすべての登山隊を指していた。彼らの肩の上に乗って、エベレストの頂上に達した、という考えだ。 また、テンジンについては、シェルパの1人が頂上に立ったのは非常にいいことだ。テンジンは、エベレスト登攀のために働き、死んでいったシェルパの代表をして選ばれた。シェルパなしではエベレストは登れない。スイス隊で活躍したテンジンがその代表になるのは当然であった、としている。 もし、第2隊のヒラリーとテンジンが失敗した場合、隊長のジョン・ハントは自分とこの著者のノイスが、第3隊として頂上に向かう計画をしていたそうだ。ノイスはその他残っている隊員のうちで、その時、もっとも体調が良かったからだ。彼は高山病の症状も述べてないし、常に旺盛な食欲を語っている。他隊員もすべて優秀なクライマーたちであったが、体調を崩してアタック隊の選に漏れていくのである。平常の体調を維持するのがいかに難しいか、ということである。 ドーピングの問題にも触れている。隊員たちはベンゼドリン(アンフェタミンの市販薬名で、覚醒剤の一種)を持参していた。ノイスは「これを使うのはスポーツ精神に反するような気がしてならなかった。それなら酸素はどうだということになると、私にはよく判らない」と記している。結局、隊員たちには使用しなかったようである。 本書は、サウスコルまで登ったノイスの克明な日記を基にして書かれた。その特徴は、通常の登山報告書にはない、登山者の登攀時におけるその内面が詳細に綴られていることである。 |
わがエヴェレスト エドマンド・ヒラリー 松方三郎、島田巽・訳 朝日新聞社 1956年 |
ヒラリーの手記 第1隊として頂上に向かったチャールズ・ワイリーとトム・ボーディロンが失敗したあと、ヒラリーとテンジンは第2隊として登頂に成功した。 |
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ヒラリー自伝
エドマンド・ヒラリー 吉沢一郎・訳 草思社 |
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★★★★★ | Man of Everest -the autobiography of Tenzin ヒマラヤの男 テンジン述、アルマン記 井上勇・訳 1955年 (同著者、Ullmenの"Tiger of the Snows" も同じ本と思われる) |
ヒラリーと初登したテンジンの自伝。口述筆記となっている。 テンジンに限らずクライミング・シェルパたちの、サーブの遭難にあたっての救出などにおける銭金に関係ない、単に献身的というのでもないあの行動は何なのか。時には、動けなくなったサーブに付き添って命まで落とす。シェルパにとって山登りは仕事である。そして生活そのものでもある。その生活を共にするサーブたちが危機に瀕している時に、自分の仕事はここまでと間単に割り切るのではない、人間として行動せねばならないような気持ちにつき動かされている。 特にイギリス隊のナンガ・パルバートの遠征ではそのような状況時のテンジンの心境がよく語られている。 この時の遠征はそもそも最初から計画していたものではなく、ちょっと登ってみようか、というようなところから、どんどん悪天候にもかかわらずこの小隊は、もうちょっともうちょっとと突き進んで行く。それはまるで山にとり憑かれたように、頂上の磁石から逃れられないように吹雪の嵐に吸引されていく。他のシェルパ3人は戻ろうという。しかしサーブの3人は登高意欲に燃え上がっている。テンジンは逡巡したが、その理性はシェルパの判断が正しいとする。そして、このような食料も装備もサポートも何もかもが不足しているにもかかわらず登り続ける狂気のサーブ3人ととうとう別れる。サーブは、自分たちに何かがあってもシェルパには責任はない、給料は全額支給すること、との書く付けをくれた。シェルパ4人はBCで2週間待機すると約束した。6日後に1人だけ下りてきた。その1人とテンジンを含めた2人のシェルパは、2人のサーブ救出のためにまた登っていったが、結局見つからなかった。 エベレストでもテンジンは、仕事を越えて、自分が登頂したいという意欲を見せている。この登高欲、あるいは熱情が初登をものにした根源である。 テンジンは、サーブ-シェルパの「雇主VS使用人」の立場にとらわれない、友人隣人のように接してくれたスイス人たちが特に好きなようである。これについては、長いが本書から引用してみよう。 しかし、イギリス人全体として考えるとき、彼らは、私が知っているほかの国々のたいていの人よりも、一層打ち解けにくく、格式ばっていることは事実である。特に私が思うに、彼らは異民族の人間に対するときにそうである。それはおそらく、イギリス人が長い間、東洋の支配者だったせいかも知れないし、あるいはまた、彼ら自らの本質のなかにあるなにかであったかも知れない。しかし、いずれにせよ、最近のここ数年、私たちシェルパが、ほかに多くの国の人びとと一緒に登山するようになって以来、私たちがしばしば観察する機会を持ったのは、イギリス人のそういう点だった。スイス人やフランス人と一緒だと、私たちは仲間として、平等な人間として取扱われたが、イギリス人には、そんなやり方は不可能だった。彼らは親切な人たちである。しかし同時に、いつでも彼らと、彼ら以外のものとの間、サーブと雇われ人との間に、ひとつの線がひかれている。「なにひとつ線のない」世界を経験したことのある、私たちシェルパのような東洋人にとっては、イギリス人のこうした態度は気詰りであり、ひと問題ともなり得る。このイギリス人の階級意識を示す好例として、朝のお目覚め時の洗面のお湯、紅茶をシェルパに持ってこさせ、食事もテントも別という遠征登山のスタイルがある。この「しつけ」を仕込んだのは何時の遠征で、どのようにシェルパは感じたかなど興味のあることであった。 この背景には200年にも及ぶ大英帝国によるインド支配の間に培われた社会的主従関係があるのである。 上が1953年イギリス隊と、下が1952年スイス隊とエベレスト登山した時の写真である。(本書P.260) まことにテンジンの人生とエベレスト登攀史は表裏一体の関係といえる。実際、登頂後のカトマンズのお祭り騒ぎは、ヒラリーよりもテンジンの功績を称えるものであった。このテンジンの登頂に至る歴史を読むと、さまざまな遠征隊がテンジンを利用してきたのではなく、テンジンを登頂させるために遠征隊が次から次へとやって来たかのようにも思えてくる。 テンジンは7回目のエベレスト遠征でやっと登頂した。この初登までの初期の遠征で、7回もエベレストに遠征したものはいないだろう。いてもシェルパくらいだろう。しかしテンジンほど高みに達したものは誰もない。 本書は、アンマン(アメリカ人)というまたとない書き手を得て、エベレストの偉大さ、テンジンの人間性を、よく伝えている。アンマン自身、テンジンに惚れ込んでいる。訳文も非常にこなれており読み易い。ただ、原題通り、邦題も「エベレストの男」にすべきであった。 エベレスト本のうちではピカイチの名著である。 |
わが山エヴェレスト テンジン 白水社 1979 |
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★★★ | テンジン ―エベレスト登頂とシェルパ英雄伝 ジュディ&タシ・テンジン 丸田浩+広川弓子・訳 晶文社 2003年 |
テンジンの最初の妻:ダワ・フチの娘:ペンペンの息子:タシ(つまりテンジンの孫)とその妻:ジュディ(オーストラリア人)との共著。テンジンの生涯をやや客観的に描き、タシ自身のエベレスト登頂(1993年のテンジン登頂40周年には雪盲のため未登頂、2回目の1997年に登頂成功/南東稜)と、その他のシェルパについてページが割かれている。本書は、登山隊の影としての役割に甘んじていたシェルパ自身に焦点を合わせた本であり、著者自身シェルパの誇りを再認識するとともに、シェルパ族について世に知らしめたい意欲が伝わってくる。西洋の文化や価値観が入ってきて、また経済的に裕福になっていくシェルパとその地域の大きな環境変化についても考えを述べている。 本書によると、最初にシェルパの山男としての資質(高度に対する順応力と過酷な自然に対する忍耐力)に注目し、登山家および高所ポーターとして訓練し始めたのは、スコットランド生まれのアレキサンダー・ミッチェル・ケラス(1868〜1921)であった。彼はすでに高度が人間に及ぼす影響を研究していた。 本書における多くの固有名詞の日本語表記など、いずれ改訂版が出るときにでも修正される必要がある。 |
★★★ | エベレスト50年の挑戦 ―テンジン親子のチョモランマ ジャムリン・テンジン・ノルゲイ ブロートン・コバーン 海津正彦・訳 廣済堂出版 2003 |
テンジンの3番目の妻:ダクの息子:ジャムリン(1965年生まれ。上記孫のタシは1964年生まれ)による、1996年のIMAX撮影隊(ブレッシャーズ隊長)隊員として登頂(南東稜)した記録。登山の進行の記述に沿って、父テンジンの足跡を回想する。本書の半分がその回想に割かれていて、その回想内容は上記「ヒマラヤの男」の内容とほとんど同じである。本書でジャムリンは、自身のエベレスト登山記録と父を理解していく過程を描くと同時に、アメリカに留学して先進国の文化への憧れ・失望を持った頃から、祖国シェルパの故郷における仏教に回帰していくこころの変遷を描いている。 上記「テンジン」と共に、シェルパの視点から書かれたもので、シェルパを知るためには貴重な本である。特に著者は、東洋と西洋の文化の間で、両者の価値観を比べつつ、シェルパ社会の将来を考える。 |
雲表に聳ゆる峰々 A.エグラー 横川文雄・訳 朋文堂 1958 |
1956年スイス隊によるエベレスト第2登の報告 |
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エヴェレストの魅惑 G.シン 野間寛二郎・訳 ベースボール・マガジン社 1964 |
1960年インド隊、第1回の試みの報告。未登頂。 (インド隊は、1965年、3回目に登頂成功した) |
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エベレスト登頂記―1963年アメリカ隊 アルマン ベースボール・マガジン社 1965 |
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エヴェレスト日記 J.D.マッカラム 二見書房 1967 |
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生と死の間―エヴェレストの四人 ウッドロー・ウィルソン・セイヤー 山崎安治・訳 ベースボール・マガジン社 1967 |
1962年、ヌプ・ラ越えで7620mまで。 | |
★★★ | 1970年エベレスト登山隊報告書 日本山岳会 |
南東稜 |
★★ | エベレストを越えて 植村直己 文芸春秋 1982年 |
日本人初登頂から冬期登山隊まで |
★★ | エベレスト・ママさん 田部井淳子 山と渓谷社 1978年 (新潮文庫 1982年) |
1975年5月16日の女性初登頂に至る山登り半生記。 (写真:松本市アルプス公園内「山と自然博物館」所蔵、登頂時の装備) |
★★ | エヴェレスト 極点への遠征 ラインホルト・メスナー 横川文雄・訳 |
1978年、メスナーによる無酸素登頂(南東稜)の記録 無酸素登頂について、メスナーはこう書いている。 「ぼくは、なんとしてもエヴェレストを登るつもりでここへやってきたのではない。ぼくの願いは、エヴェレストを知ることであり、この山の偉大さ、困難さ、厳しさのすべてを知ることだった。だからぼくは、もし酸素マスクなしてエヴェレストが登れないのだったら、潔く頂上をあきらめる決心をしていたのだ。前に述べたように、近代的な酸素吸入器を使えばエヴェレストの頂上は高さが6000mの山に等しくなる。この6000mの高さを体験するために、わざわざエヴェレストまでやってくる必要はない。エヴェレストの偉大さを身をもって味わい、これをじかに感じ取るためには、どうしても技術的な方法なしで登らなければならない。そうやって登ったときに、ぼくには人間がそこでなにを感じるか、人間にとってどのような新しい次元が開かれるか、そして、果たして人間は、宇宙と新しい関係を結ぶことができるか、それがわかると思うのだ。」 |
チョモランマ・チベット 日本山岳会珠穆朗瑪登山隊 公式報告 講談社 |
1980年日本山岳会珠穆朗瑪登山隊による北稜-北東稜と北壁の初登頂の記録 | |
★ | チョモランマに立つ 日本山岳会隊 エベレスト中国ルート激闘全記録 読売新聞社 |
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★★★ | ヒマラヤへの挑戦 第1巻 アテネ書房 |
エベレストに登頂した日本山岳会登山隊、第2次RCC登山隊、日本女子登山隊、イエティ同人登山隊、山岳同志会登山隊、植村直己撮影隊などの記録をまとめてある。 |
★★ | 精鋭たちの挽歌 運命のエベレスト 長尾三郎 |
1983年イエティ隊と山岳同志会の日本初無酸素登頂。 山岳同志会は南西壁から南東稜にルートを取った。 イエティ隊の吉野寛、禿博信の2名が登頂後遭難。 |
★★★ | チョモランマ・サガルマータ1988 読売新聞社 1989 |
中国・日本・ネパールによる混成登山隊 北隊はチベットの北稜-北東稜(本書では北東稜)から、南隊はネパールの南東稜から登り、頂上で出会って、それぞれが反対側に下る交差縦走。 登路がつかみやすい写真が豊富で、登路、キャンプ地とその標高、行程表、記録、装備、食糧等について簡潔にまとめられている。エベレスト登山ガイドブックというのはまだ出版されてないが、その代用品として役立つ。 |
バリエーションルート | ||
エヴェレスト登頂記 丹部節雄・訳 |
1963年、アメリカ隊の公式記録。西稜から南東稜への初縦走。 | |
★★★ | エヴェレスト日記 青柳健・訳 |
1963年、アメリカ隊隊員の個人的記録。西稜から南東稜への初縦走。 |
エベレスト南西壁 大浦暁生、平林克敏・訳 |
1975年ボニントンによる南西壁初登頂記 | |
★★★★ | チョモランマ単独行 1985年 横川文雄・訳 |
メスナーによる無酸素単独登頂の記録。ノース・コルから北壁グレート・クーロアールを経て登頂。 前半は過去の登山隊の記録について多くのページが割かれている。限られた荷物に何を持っていくかは大変重要なことで、それにはルートがどんな状態であるかの研究は不可欠であることから、かなり研究していたようである。 実際の装備には、ロープ、アセンダ、ディセンダ、スノーバーなどは含まれず、1本のハーケン、ピッケル、そして2本のストックだけのようだ。NIPPINのゴアテックス特注テントを使用した。2本のストックは、クレバスを渡ったり、急斜面でのバランスに、大いに役立ったということだ。 BCに戻って来て待っていたニーナに会った時には、精魂尽き果て、エネルギーを使い果たしていた。 |
★ | エベレスト北東稜 1995 登山報告書 |
1995年日本大学エべレスト登山隊による北稜-北東稜初登頂の記録 |
高齢登山者の挑戦 | ||
★★★★ | 七つの最高峰 ディック・バス、フランク・ウェルズ、リック・リッジウェイ 三浦恵美里・訳 文芸春秋 1995年 |
ディック・バス(正式名:Richard Daniel Bass)とフランク・ウェルズが7大陸最高峰登頂を目指し、リック・リッジウェイが執筆した。 エベレストにはディック・バスだけが登頂した(1984年4月30日)。55歳での登頂は当時において世界最高齢であった。ブリーシアズ(「EVEREST非情の最高峰」では"ブレッシャーズ”)と共にノルウェイ隊に加えてもらい、シェルパのアン・プルバと3人で登頂(南東稜)。ディック・バスはアメリカの富豪で、登山ではアマチュアの域を出ないが、大変パワーのある人のようだ。 本書におけるエベレスト登山の記述の特徴は、他に類例を見ないほど、登路、登山生活、心情等について細かい描写があることだ。高所登山に慣れない人の経験談は、これから公募登山等で登ろうとする人には大いに参考になるだろう。この点においてはプロの登山家による描写はそっけないものである。 4度目のエベレスト登山においてやっと成功したが、まさに生死ぎりぎりのところでの生還だ。登頂とその後の下山の様子の詳細な行動、登路、内面の記述からは、ディックたちが登る1歩1歩が見えてきて、その息づかいまでもが聞こえてきそうだ。 たとえ優秀なガイドやシェルパが同行しても、やはりエベレストというのは一筋縄ではいかないことを教えてくれている。単純な思いつきで登れる山ではない。 2回目の試みの時には、同隊のラリー・ニールソンがアメリカ人として初めて無酸素登頂した(1983年5月7日、南東稜)。この無酸素登山の記述も詳しい。同年10月8日に日本人5名が無酸素登頂したが、いずれの場合も、下山時には疲労困憊して、他のメンバーやシェルパの助けなしには生還は非常に難しい状態であった。エベレストは、やはり生と死が紙一重のデスゾーンであることには変わりはない。 |
★★ | 五十歳からのヒマラヤ 1996年 石川 富康 |
著者は57歳(1994年、南稜)、65歳の2回登頂(2002年、北稜) |
★ | 還暦のエベレスト 1995年 宮原 巍 |
1994年10月(南東稜)、頂上の手前300mのところで著者は引き返した。低温、低酸素による視覚障害となっていた。一緒だった過去登頂1回の貫田宗男(「二人のチョモランマ」の著者)は無事登頂した。 著者はシャンボチェ上部にあるホテル・エベレスト・ビューのオーナー。 2005年にネパールに帰化し、政治活動に乗り出した。長野県青木村出身。 |
★ | 63歳のエヴェレスト 2003年 渡邉玉枝 |
(2002年、南東稜) 女性世界最年長登頂 |
★★ | 70歳エベレスト登頂 2003年 三浦雄一郎 |
(2003年、南東稜) この本もエベレスト登山を目指す人には良いヒントを与えてくれるでしょう。 |
チョモランマへの道 ―小川誠写真集 2006年 小川 誠 |
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★★ | 私のエベレスト峰 2008年 柳沢勝輔 |
71歳2カ月の時に登頂(2007年、北稜-北東稜)。この年に最年長登頂記録を更新。 |
★ | 冒険家 75歳エベレスト挑戦記 2008年 三浦雄一郎 |
(2008年、南東稜) 最初、チベット側から登る予定であったが、中国オリンピックで聖火をチョモランマ頂上に上げるため、中国はエベレスト登山のための入境を禁止した。そのため、ネパール側南東稜に変更となった。 80歳登頂にむけて、まだ挑戦は続いている。(次は2013年=初登頂60周年) |
(未刊) | 空想的100歳登頂 (2030年) |
100歳登頂のシナリオは? 100歳登頂はもはや個人的鍛練の次元でなく、インフラ如何にかかってきた。 まず、(シーズン毎に)サウス・コルに超大型ヘリで宇宙船の小型版のような建造物を上げてBCとする。その中には順化を終えた登山者の一群が乗船している。強風・豪雪にもびくともしないその建物は、まずサウス・コル到着時4つのアウトリガーが油圧で水平を整え、アームで外部の氷雪を内部に取り込んで、ソーラー発電での電気で水を作り、スタッフが調理し、ダイニングで提供する。キッチン、ダイニング、トイレ、バスルームの他は、カプセルホテルのように仕切られた登山者用ベッドが並ぶ。もちろん暖房完備、通信設備完備である。送られてきた気象情報をもとに登頂日が来た。各登山者はすでに張られた半恒久的アルミ製クサリや梯子を伝って、各自酸素を装備した先行するロボットに導かれ、ロボットの背後から延びる管から酸素を供給され、電動式アッセンダを握りながら、保温式ミトン、保温式超軽量二重靴装備、体重軽量化バルーン装備でひょいひょい登る。下りでは随所に滑り台が設置されている。一般的なタイムスケジュールは、朝3時出発、登頂11時、ロボットの中から温められた昼食と飲み物を取り出し頂上滞在1時間、サウス・コルに戻るのが17時・・である。 余談:この影響で、ちょうどバイパスが出来て旧商店街がさびれてしまうように、アイスフォールに梯子をかけたりするシェルパの仕事がなくなってしまった。またガイドそのものの仕事がなくなって、ガイドたちは救助隊の役割になってしまった。エベレスト産業はサウス・コルBCを扱う大手外資系資本に掌握されてしまったのである。これに対してネパール山岳協会やトレッキング協会が反発すると共に、世界の環境団体、登山家たちからも非難の声があがった。 一方、大手外資系資本もこれぞ究極の世界最高所ホテルとして大々的に広告を打って先行的に投資してきたからには引き下がれない。彼らの事業はますますヒートアップ。シェルパなどで構成される既存の団体でうるさいネパールを捨て、こんどはK2頂上に300mのビルを設置し、世界1の8911mの頂上を作ってしまう・・とまあこんな感じでしょうか? ●実際の100歳登頂のかすかな可能性は、現在、最多登頂更新中のアパ・シェルパが健在であれば、彼が100歳である2061年に達成されることになる。ネパールのシェルパたちが総力をあげてサポートしてタッセイサレネバナラナイ! |
エベレスト大衆登山の幕開け | ||
★★★★ | INTO THIN AIR Jon Krakauer・著、1997年 空へ 海津正彦・訳 文芸春秋 1997年 |
商業登山の公募が始まって以来、初めての大量遭難のルポ。ロブ・ホールの公募隊に参加した難波康子隊員は登頂後遭難死した。(南東稜) |
エベレストのぼらせます 2000年 大蔵喜福・著 |
著者は2007年登頂。1985年カモシカ同人隊、冬期北壁アタックメンバー。 | |
★★ | エベレスト登頂請負い業 2011年 村口徳行・著 |
著者は日本人最多の7回登頂 この本も、エベレスト登山を目指す人は一読されるのがいいでしょう。 |
NEPALESE CLIMBERS on Mount Everest By Ang Phurba Sherpa (Modern Printing Press, Kathmandu) 1st Edition 2002, 1000copies Hard Cover Rs.1100 ISBN: 99933-756-0-8 ----------------------------------- 2001年までの全ネパール人登頂者の顔写真入りリストと個人情報。 |
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Everest Summiteers Association Summiteers Profile には、ネパール人のエベレスト登頂者リストがあり、写真と個人情報が掲載されている。こちらは世界のエベレスト登頂者リストです。 最年長登頂 ◆以下の表で、日本が常に最年長登頂(最高齢登頂)を独走している底力がわかる。 健康寿命が75歳。この年齢で登頂すればすごい。まずこの年齢が限界であろう。 考えてみれば、日本人よりシェルパのほうが強いから、シェルパが記録を打ち破ってもよいはずである。 そうならないのは、75歳ともなれば全くの自力登山ではなくサポーターに依存しないではできないのが通常だが、シェルパがシェルパのガイドを金を出して雇うというのはあまり考えられないことによるといえるかもしれない。でもリッチなシェルパもいるから、これからのことはわからない。 上記記事は数年前のものであるが、いよいよネパール人登場! 三浦雄一郎さんの2008年エベレスト登山 75歳の三浦さん世界記録なるか あるいは、・・・ Min Bahadur Sherchan(77歳、ネパール人)も、最高齢登頂を目指して今年2008年にエベレストに挑む。残念ながら我がシェルパ族ではなく、タカリ族である。 彼がエベレスト登山の意向を発表したのは、エドモンド・ヒラリーが他界した翌日のことである。高齢者に元気を与え、ネパールの若者を鼓舞したい、そんな願いを語った。 Pemba Dorji Sherpa など12人のベテランシェルパがサポートする。(2008.1.25記) 社会実情データ図録より転載 |
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高所登山に耐える体力と食事――ラインホルト・メスナーの例 | |
ラインホルト・メスナーが高所登山の前に行った食生活は、まず、数日間、炭水化物の摂取を禁じ、登山の数日前から炭水化物ばかりを取る。これにより体は待ち望んでいた炭水化物をブドウ糖として吸収し、血糖に変える。これを肝臓や筋肉中のグリコーゲンとして蓄える。このような方法では、いつもの1.5倍のグリコーゲンを蓄えることができ、持久力が増大するという。 また、メスナーはニンニクを登山前に大量に食べたということだ。 【参考資料】 「スポーツマンの食卓」はまの出版、1992 この本には、その他各種スポーツの国内外著名選手の食事と体力作りについて述べています。 (マラソン、水泳、ゴルフ、ボクシング、サッカー、テニス、柔道、他) また、登山活動に入ると、高所においては、今度は炭水化物を控えることが大切になってくる。控えることで肺におけるガス交換を促進し、酸素を有効利用できると云われる。 救難食糧/イーアール
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8000m 14座の初登頂 (作成中) | ||||||
初登頂日 | 山名 | 標高 | 標高順位 | 国名 | 登頂者人数* | ルート |
1950.6.3 | アンナプルナT | 8091m | 10 | フランス | (2) | 北氷河-鎌氷河-北壁 |
1953.5.29 | エベレスト | 8848m | 1 | イギリス | (2) | 南東稜 |
1953.7.3 | ナンガパルバート | 8126m | 9 | ドイツ(西独) | (1) | |
1954.7.31 | K2 (チョゴリ) |
8611m | 2 | イタリア | (2) | |
1954.10.19 | チョーオユー | 8188m | 6 | オーストリア | (3) | |
1955.5.15 | マカルー | 8485m | 5 | フランス | (9) | マカルー・ラ-北西面 |
1955.5.25 | カンチェンジュンガ | 8586m | 3 | イギリス | (2) | |
1956.5.9 | マナスル | 8163m | 8 | 日本 | (4) | 北東稜 |
1956.5.18 | ローツェ | 8516m | 4 | スイス | (2) | |
1956.7.8 | ガッシャーブルムU | 8034m | 11 | オーストリア | (3) | |
1957.6.9 | ブロード・ピーク | 8051m | 12 | オーストリア | (4) | |
1958.7.5 | ガッシャーブルムT (ヒドン・ピーク) |
8080m | 13 | アメリカ | (2) | |
1960.5.13 | ダウラギリT | 8167m | 7 | スイス | (6) | |
1964.5.2 | シシャパンマ | 8027m | 14 | 中国 | (10) |
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番外・おすすめ名著 エベレスト以外の特に登山・冒険・文化人類学の分野から これまで読んだノンフィクション数百冊の中より絶対おすすめ名著をご紹介 |
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「ミニヤコンカ奇跡の生還」 松田宏也・著 山と渓谷社 1983 |
遭難記、東の横綱 遭難者本人の手記 2人で登山し、1人だけ生還した。しかもBCにはだれも待っていなかった。 「死のクレバス」よりも悲惨な生還劇だ。 この本は英語に翻訳されるべきだろう。 |
Touching the Void Joe Simpson 「死のクレバス」 ―アンデス氷壁の遭難 J・シンプソン・著 中村輝子・訳 岩波書店 1991 |
遭難記、西の横綱 遭難者本人の手記 2人で登山し、2人とも生還した。BCに待っている人がいた。 「ミニヤコンカ奇跡の生還」に比べればハッピーエンドだが、壮絶であることには違いはない。 この本(原著)は、カトマンズの新古書店ではどこでも置いているベストセラー。 以上、東西の横綱の2著に比べれば、例えば「空白の五マイル」(角幡唯介・著)、「垂直の記憶」(山野井泰史・著)などの生還劇の描写は幕下、十両クラス。筆力の差か・・? |
「ヒマラヤの賦」 ―ギャチュン・カン/バインター・ブラック/マナスル 吉沢一郎、河西俊郎、田村宣紀・著 桐原書店 1980 |
所収の3編とも人間味あふれるヒマラヤ登山記となっている。 長野県の登山隊とシェルパの交流が、登山そのものの記録より内容を占めている珍しい作品である。人間味は言葉以上に伝達力があるということの良い例証ともなっている。シェルパやシェルパニのおおらかさ、人の良さが十分に描かれているとともに、作者の人間味にこころ打たれる感動作品である。 或る本で、自身がシェルパを殴ったと書いている早稲田出身の某作者は、この本でも読んで、「人間性は人間性で返される」ということを学び、己がまともなサービスを受けられなかったのは己のせいであることを知るべきだろう。 |
「パピヨン」 アンリ・シャリエール・著 平井 啓之・訳 タイムライフブックス 1970 |
スティーブ・マックウィーンの映画で有名だが、原作が圧倒的に面白い。文学とは無縁のやくざな男が自身の経験を書いた、事実がもつ強みで読者をぐいぐい引き込んでいく、まさに映画の原作としては理想的なストーリー。 以上3著は、いずれも本人が書いたもので、やはり体験者本人が書くものがすぐれている。 |
「ブリンジ・ヌガグ」 ―食うものをくれ コリン.M.ターンブル・著 幾野 宏・訳 筑摩書房 1974 |
ピグミーの研究で有名な文化人類学者による、アフリカのイク族の生態記録。人間社会の負の可能性を示すノンフィクション。 読んでいて胸くそが悪くなる気の重い本。その意味ではあんまりおすすめではないかもしれない。 極限状態では人間社会はこうなるのか、その一例を示している。 現代の文明社会は、マイナスに向かわないようにしようと、人間の意識的な努力でなんとか成り立っているようだ。 |
「山と猟師と焼畑の谷」 ―秋山郷に生きた猟師の詩 山田亀太郎・山田ハルエ・述 志村俊司・編 白日社 1983 |
長野県栄村の苗場山と鳥甲山に挟まれた谷に生きた山人夫婦の暮らしの聞き書き。昔の一猟師の人生記録といってしまえば何の変哲もないようであるが、熊との闘いで片目を失ったり、焼畑を拓く苦労などは壮絶と言える。一生涯にわたって続く食う為の山中での艱難辛苦は、お遊びの山登りの比ではない。「サバイバル登山」の作者もその方向を追求していけば、究極はこうした暮らしを志向するしかないだろう。そして、その上で、現代文明の意味、価値もあらためて再認識されてくるのだろう。 このような記録は、文を書く習慣のない山の人により通常は残されることはないと思うが、編者はよく本にしてくれたと思う。全く貴重な書物である。またその謙虚な姿勢には好感が持てる。名著として将来に残る本である。 |
「あゝ野麦峠」 山本茂実・著 朝日新聞社 1968 「『あゝ野麦峠』と山本茂実」 山本和加子・著 角川学芸出版 2010 |
この夫婦の著作はセットで読まれるべきものであり、両作品とも涙なくては読めないものである。 山本茂実の「あゝ野麦峠」はあらためていうまでもなく名著である。文学と社会学をあわせたような、人間感情を含む社会科学としてのノンフィクション大作というべきか。 そして、「『あゝ野麦峠』と山本茂実」をもってより一層の重みを増す。山本茂実の稀有な生涯を描きながら、「あゝ野麦峠」がいかに精魂込めて完成されたか、山本茂実ほどこの作品を書くにふさわしい人物はいなかったかをよく表している。和加子さん、よくぞこの本を書いてくれました!と言いたい。 1982年頃に山本茂実の講演を農協の一室で20人ほどのお百姓たちと共に聞いたことがある。松本市出身の山本茂実と同じ長野県でもあり、方言で気楽な雑談風のお話であった。戦争に対する恨み節でもあった。 しかし山本茂実を含め、そのような戦争体験をした弁達者、文達者連が多くいたはずなのだが、日本人は忘れっぽいのか、なぜ戦争に突入していったかを解明していく人を見ることができないのは何故だろうか。戦争で本当に悲惨な目に会った人たちは、その後の生活建て直しにおいても苦労続きで、心身共に疲弊しつくしたのだろうか。 |
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リンク
Everest NewsAll Mount Everest summiteers
エベレスト登頂者リスト
http://www.nationalgeographic.com/everest/
ナショナル・ジオグラフィックのエベレスト50周年特集
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